2012年5月29日火曜日

国家とは何か・情報共有体(10)


 そして、このような点と点の関係、つまり人間同士の関係までも法に依存するようになれば、それは次第に法を扱うものが、また法に対する知識のあるものが、社会において上位を占めてくるようになる事も忘れてはならない。情報とはそれを教えたり、発信するものが必然的に上位に立つことになる。それは親から子へ、教師から生徒へ、上司から部下へ、皆同じ流れである。そのような情報の共有関係が法に依るものになれば、法情報を熟知し、また法情報の決定権のあるものが尊重されるのは当然である。本来政治家は、人と人との関係から発せられる問題を個人の力によって調整するからこそ、万人から尊崇を受けるものであり、そのためには当然、人間的な力を要求される。しかし現在のような法に依存する社会においては、法の解釈を曲げる、もしくは法に対し例外を設けたり、細かい問題に対して安易に法を制定したりすることによって自らの力を誇示しようとする。選挙を見てもわかるように、現在の国民が政治家に必要とするのは、人としての力ではなく法を制定する権力そのものだけであろう。それがゆえに選挙において落選した政治家は人として、また文筆などによっての政治活動によって自らの主張を知ってもらおうとするよりも、息を殺して再起を待つのである。選挙を見ても、その結果が選挙区民との繋がりと言うよりも、党勢や時勢と言ったものによって左右されやすく、それが政治家の権威を著しくおとしめている。法を定める力、関わる力がありさえすれば誰でも政治家になれる世の中なのだ。国民が意識を変えない限り、この現状は続くであろう。
 法が国家の外殻であり、その外郭を政治家が定めるのはどの政治形態でも同じ原則である。それはなぜか、それはどんな問題でも選択できる答えは一つだけだからである。一つにまとめられた力の方向性は、一つにしか定められない。私たちの体も、体が向く方向にしか進めないのと同じである。もちろんそれに参加する機会は、全ての国民にあり、またそれに至るまでの討議や答えの中に、多様性に対してできる限りの配慮をおこなう事はできるが、選ばれるのは一つでしかない。それゆえに法の制定や国家の運営は、国民全体が関わらず常に代表者によっておこなってきた。しかし、専制政治と民主政治では全く違う。それは政治への国民の関わり方であって、民主政治では、問題を解決するために多くの情報を国民に流し、考え、知る事で、政治家の意志を揺り動かす事ができる。専制政治においても政治家の意志を揺り動かす事はできたが、しかしそれは国民が圧制などによって感情に耐え難いものを持ち、政治家が持つ直接的な力、すなわち軍などの武力と同等の力を見せつけた時だけである。しかし民主政治では、私たちが言論などによって平和的に政治家を動かす力を持っている。つまり、国家の外殻である法に対して私たちが疑問に思えば、私たちが情報を共有し政治家に訴える事で法に関わる事ができるのである。しかし、その揺り動かしはあくまでも公のためのもの、見えない他者の事を考えてのものであり、個人の境遇のみのものであってはならない。現在の日本においてその境目を意識しているものが果たしてどれだけいるであろうか。それは、日本国憲法と言う国家の基準が不明確になっているからとも言え、それゆえに私は私たち自身の社会にあった憲法を定めねばならず、そしてそれは恒久的なものではなく、時代によって変えられるという意識を常に持ったものでなければならない事を訴えたい。
 国家が人の集団である以上、どんな政治形態でも正しさは求められるし、間違った答えも出る。では、最良の国家とは何か問われたら、私は人と人との有機的な繋がりをどれだけ実現できているかと言う事だろう。どんなに良法があっても、法が強制力を持つものである限り、それが多ければそこに住む人間を拘束するものでしかなくなる。しかし法無き世界は国家として、共通の情報を持たず常に分裂するだけであろう。最良なのはそこに住む住人が国民として互いに意識しあい、また、その最低限のルールと人の繋がりによって解決できないものを法として制定する事であろう。そして、そこに住むものが法について情報を共有でき、また意志、意見を述べれる民主主義が最良の政治形態だと言うことを私は強く述べたいのである。

2012年5月25日金曜日

国家とは何か・情報共有体(9)


 人は一人で生きられない、それは誰もが知る事実である。しかし人との関係において対話など直接的なやり取りを遠ざけ、線としての繋がりを避ければ面にはなれない。このような点としてわが身を守る人間は、何を頼りとするのか。その答えが、法とそれに伴う権利になりつつある。外見がしっかりとした家ならば、中がどうあっても生涯安泰という論理なのであろうか。法は集団として個人に対し、決められた事を守るよう強制できる。つまり法を使えば、時には個人を守る枠となり、また時には個人と他者とを強制的につなぐ線となるため、交際などによって他者を知り、関係を築き合う手間が省けるのである。それゆえに点である個人は、自らを守るため盛んに法と言う線を使い、自己都合によって無理やり他者と繋がりあおうとする現象が増えつつある。
 社会福祉によって援助、または補助される理由の中には、個人が引き起こした結果が原因によるものも多いであろう。しかし本来、人の人生は自らの選択であり、その成功や失敗は自らが背負う事が第一義となる。それゆえに成功すれば成功者自身を称賛し持ち上げ、本質的には周囲や社会にその個人の成功は直接還元されない。しかし失敗した場合、現在では本人よりも社会などが原因であるとする論法が実に横行している。もちろん全ての失敗や不運がその人の責任であるとは思わないが、その失敗に対して評価をし援助を行うのは、社会よりもまずその者の周囲の人間ではなかろうか。それは辛口の、つらい評価もおこなわれるが、その後の行動などによって理解されることで、周囲は決して見捨てはしないだろうし、本来なら、人間は間違いを冒す者であり、正しく生きてきた自身を持つ者がいないならば、親兄弟、親族は助けるべきではなかろうか。それなのに点として生き、直接的な関係を希薄にすれば、周囲から人は去り、理解される事は少なくなる。忠告者もいなくなるが、助けてくれる人もまたいなくなるのである。本来なら、そのような選択を行うものは、救う必要はない。しかしながら、現代においてはそのような人間に限って法を頼り、その保護や回復を広義に求めるのである。社会保障が充実され、それを頼れば自分の近隣者を必要とせず、その失敗や不幸を明かす事なく、隠しながら生活を営める。しかし、その費用は私たちが納めた税なのであり、言い換えれば法の力を使用して多くの名も無き人間と繋がりあう事を強制し、自らの生活をおこなうといっても良い。社会保障費は政府に決定権があるため政府が生み出すと思っているかもしれないが、原則的に政府が生み出すお金はない。皆、私たちが納めた「税」なのである。現在、高校無償化などを代表するように様々な権利の拡充が求められているが、その権利を支えるのは国民自身である事を本当に理解しているのであろうか。権利の拡充によって、ある点、ある個人は回復するであろうが、しかしその負担が別の点に回る事を、訴えている人は本当に考えているのだろうか。人同士の直接的な繋がりが希薄な現在、このような間接的な繋がりの拡充が政治争点となる事が多いが、国家が有機的な点の繋がりでなければならないのなら、法による無償の権利の拡充や補助金と言った事に対してはより慎重にならねばならず、国家の中でも基盤的な繋がり、つまり親子や親族、地域社会を私たち自身が気づきあげることが先決であろう。しかしこのような事ですら消費社会などを代表する経済論と道徳的社会論を盾とした善悪2元的に割り切ろうとする答えしか求められないから感情的な争いになるのであり、それに法で定められた基準が争点となるから求めるものとの綱引きとなり、また法による基準も「例外」、「特例」などが増え、曖昧になるのである。これが政治の混乱と言わずして何を混乱と言おうか。

2012年5月23日水曜日

国家とは何か・情報共有体(8)


 もちろん現実における政治的問題はこの設問ほど割り切れるものではなく、さらに複雑な問題の狭間で経済のかじ取りをしているのだが、私たちが食料自給率や国の借金に対して不安しか見出せないのは、問題が場当たり的に、また単純にしか考えられず実像がつかめない事と、また既に私たち自身が、実はそれほど経済大国ではないと自覚しており、何も生み出せない小さな島国として自信を失っているからかもしれない。もし本当に経済大国なら、なぜ私たちは残業までして働かねばならないのか、それにしては給与が少ないのか、などの答えについて政治家やコメンテーターからは聞いたことはない。真の経済大国ならば、古代ギリシアのアテネ同様、時間も買え、奴隷を雇い、自由民は政治、哲学、学術にふけるか身体を鍛えているに違いない。しかし日本に一時と言えども、そのような時期があったであろうか。バブル期において私たちはだいぶ消費にいそしみ弛緩してきたが、それでも随分働いていた。絵画や建築物に億単位の額をつぎ込んだが、それは自らが生み出した物では無く、他者の遺物を買ったにすぎない。つまり、接待やタクシーチケットなど、生産からの延長、または余剰を楽しむ事はできたかもしれないが、本当の意味における余暇や安楽があった訳ではないのである。バブル経済は、常にこまめに働き続けて来た結果と、通貨価値の上昇などがシンクロしておきた現象であり、それが経済大国の実像だったのではないだろうか。私はバブル経済期にはまだ学生であり、現在30代であるが、職への不安などは別として、あのころと生活水準がそれほど変わったとは正直思えない。むしろ感覚では経済が低迷中のはずの現在の方が物は手に入りやすく、また余暇も多いような気がする。残業規制などで多くの会社員が不平を漏らすが、本質論で言えば残業代などは実収入と考えてはならず、臨時収入としなければならない。自分の時間を削って残業代を得、不況になり仕事を削られ自分の時間が増えてくればそれに対して不満に思う事は、他の国家から見れば奇異に映るであろう。それだけ私たち日本人はワーカホリック(仕事中毒)なのかも知れず、余暇は余暇ではなく本当は自分の時間なのであり、自分の時間こそが自分の人生であると考えられない人が多いのかもしれない。違う視点から見れば、私たちはゲームにはまる子供たちと同じであり、難関をクリアし共有する喜びは知っているものの、現実的な生活における周囲の人間を簡単に無視しているともいえる。そしてそれは、最も社会を支えねばならない中高年の人間に多い。その理由もまた、給料をもらい水準の高い生活を満たしたいだけという個人的な欲求が根底にあるのは、ゲームにはまる人間と同じだ。だからこそ、高い給料を得てもさらに高い給料を求め、もしくは現状を維持するために、家族や社会を振り向こうとしない。情報とは何度も繰り返し伝え、共有しあう事で深く理解しあえる。親子関係とはまさに基本的な情報の伝達、共有関係にあるのだが、しかし現在の親子関係においてそれは間接的であり、親はその仲介に必要な資金をせっせと集めるが、直接的な関係は放棄する。それは親として自分自身の才能を信じないせいなのか、それとも単に効率的なのかいろいろ答えはある。しかし親と子の直接的な線が細ければその関係は切れやすい糸のようなものであり、それが社会問題、あるいは国家などの共同体における関係性の弱さに繋がる本質的な原因になっていると私は思う。そしてこれは親や子の関係だけではない。労使や地域社会、全ての国家内における人と人との直接的な関係が希薄になり、国民は点としての存在を守ろうと強調し、面としての力を失っているのである。消費社会や道徳的価値観に対する論議、つまり国家の問題の解決は、ここからスタートしなければならない。

2012年5月21日月曜日

国家とは何か・情報共有体(7)


 人間は多くの情報を生み出し、それを基に「新歩」していった。第2次大戦以降、多くの国が民主主義に移行をしてからというものの、局地的な争いはあっても国家間の潰し合いは原則的に回避される傾向にある。これまでの間、私たちの恐れる核兵器の応酬もないし、私が思うに、民主主義国家が世界の大勢を占めている間は巨大な戦争が起ることには懐疑的である。なぜなら民主主義国家における国民の要望は、家の外観よりも住みやすさを重視することであり、また民主主義における自由の拡大は、上から下へという単純な点と線による力の構造から、点と点が制限ない情報で複雑に繋がりあう構造によって多くの牽制を生み出すからである。ただ、現在の日本を含め、多くの国家がこのような牽制状態の中で、国民が窮屈な思いをしている事は指摘しておかねばならない。人口増という環境が土台となり、そして意志の自由は情報の多様的にさせ、個人の数と比例して増加し、人同士の行動を牽制しあうからである。その多様化の中でも、経済に重きを成す消費社会と「もったいない」などに代表される道徳的社会観は二極化して大きな影響を及ぼし、社会問題化している。
 私たちは皆、何かを生産し、分業をおこなう事で日々の糧を得ている。消費があるからこそ生産の余地があるのだが、その視点からみれば、「もったいない」や「リサイクル」は、生産、分業行為を否定しているとも考えられる。もちろんこの考え方は一面的であり、決して正しいものではないが、このような別の角度から見た情報をたびたび否定することで情報に派閥を生み出し、それが消費社会と道徳的社会観に現れている。物事の決定が一つしか出せないのなら、どちらかを選ばねばならないが、すべての答えをその一方に与える必要はない。事実を直視し、柔軟に対応しなければ、経済大国であった日本の方向性を考え直す事はできないし社会問題も解決し得ない。多くの多様的な考えを調整するのが政治なのである。
 そして現在は多様的な視点から問題を見ることができるため、問題が複合的に絡み合うことを見つけることができる。例えば、日本で廃棄される電化製品をリサイクルして途上国に流す。それによって日本製品を宣伝できるが、それが新規顧客の開拓に結びつくと言う単純な結論は信じがたい。なぜなら日本もそうであったが、国民が豊かであるからこそ持続的に消費財を受け入れられるのである。確かに安いものを購入し物が増えれば、一時的ながら国民の生活が発展する、しかし持続できない限り、途上国の国民の生活向上が需要増に結びつくとは考えられない。途上国が貿易などによって経済力をつけ、通貨価値を上げる事で初めて国民の生活は豊かになり、持続して他国の製品も買えるようになる。ただ、途上国の台頭、そして向上は日本に困った事実を突きつける事になる。まず一つは、日本も通ってきた道であるように、製品を模倣し、そこから進展することを自国内でおこなえるようになれば、外国製品は必要なくなる。そのことは技術と加工が売りの日本にとって影響は小さくない。それを防ぐために日本企業は現地と同化を図るが、現地生産に乗り出せば世界の工場としての日本の立場は薄くなる、これが2つ目。私はこの点は現在の日本の労働市場の問題に大きな懸念を及ぼしていると推測しているが、どうであろうか。3つ目は現在、途上国ほど資源産出国であるのだが、途上国の価値が上がれば日本はどのようにして原料を手に入れるのだろうか。原材料の上昇は目立った資源無き日本にとって大きな痛手ではないだろうか。現在のレアメタル問題などが、まさにそれであろう。そして4つ目が、外貨を獲得できない、また日本の経済価値が落ちれば、私たちはどこから食料やその材料となる肥料、飼料を手に入れれば良いのだろうか。

2012年5月19日土曜日

国家とは何か・情報共有体(6)


 ただし、外観は外見でしかなく、国家の全てを表している訳ではない。私たちが住む家には様々なものがあるが、外観は豪勢であっても中が化け物屋敷のように寂れ、取り散らかっているものもあれば、茶室のように小さいながらも品があり、整然としている建築物もある。法はあくまでも家の外観であり、その中身がどのようになるかは結局住人次第なのだ。宮殿のように外観も中身も豪勢で整ったところもあれば、一見わびた茶室でも物置のように取り散らかって入ればそれはただの小屋となる。国家も同様であり、その国家における法を知れば、国民行動の限界を知ることができるため、その枠組みはうかがい知ることはできよう。しかしその法の中で過ごしやすく整える事は住人次第であり、どんなに良法でもそれを扱う住人の性質が低ければ国家は荒れ果てるだろうし、どんなに住人の性質が良くても悪法が枠組みとなれば窮屈な思いをし、偏狭な生活によって次第にその性質も悪くなるであろう。
  このように国家とは家そのものでありその骨格や枠組みは法であると言えるが、その中での暮らしやすさは住人次第であり、人同士による情報の繋がりが国家にとって重要なのだ。どんなに立派な肩書きや資産を持つ家族でも、その仲が険悪であれば暮らしやすい生活はおくれない。政治とは住人同士の繋がりを調整する事であり、政治家はその調整者なのである。各国民が一つ一つの点であるとするなら、情報は点を繋ぐ線である。法はその線を囲い、また基準となるべき情報だが、生活における人間関係の中で法が情報の繋がりの中心となる事はまずあり得ず、私たちの関係は法以外の、日常生活における情報の反復によって成り立っているのである。人と人とを繋ぐ情報が電線のようなものであれば、法はそのケーブルを包むコーティングでしかない。そういう点から述べても法はあくまでも枠にすぎず、国家とは人同士が繋がりあう「面」の部分が本質であると言えよう。700万年に渡る人類史をみれば、法治国家が成立したのはそんなに古いことではなく、それ以前は人同士の情報、または欲求の繋がりによる集団が国家であった。もちろん、統治者達は法のような拘束力のある情報によって枠線を引いてはいたが、それは人間の持つ感情の力の前にはいとも簡単に破られていったのであり、治めるものが自己都合でその情報を勝手に変える事もあれば、治められるものが耐えきれずに情報を無視する事もある。またなんの情報を共有していない他集団が、その欲求によって平然と侵害する事もあった。定められた情報を打ち破る力による争奪が長い間人類を支配し、その力を抑えられるのが誰も証明できない超越した力、天変地異や死後の世界、自然や霊魂、そして愛など、すべてを包み込む神という情報、そしてそれを整理した宗教によるものであった。わからないものに力は行使できない。しかしわからないものに「神」と名付ければ、それはすべてを抱擁した大きな力になるのである。それゆえに宗教の力は国家を超え、時には法をも超越し人界を支配できたのである。しかし、それも情報であるがゆえに、わからなかったものが明かされる、もしくは論理的な説明のつく情報になれば、神の領域は目減りしてくる。それが現代の「神」の状況につながるのかもしれない。政治においても、もはや神の力は使われず、法の力へと変化していったではないか。

2012年5月16日水曜日

国家とは何か・情報共有体(5)


 私たちが、現在最も認識できる共有体として大きなものは、国家であることを述べてきた。地球と言う星を意識するには他に生命体がいる惑星、つまり比較対象が必要であり、またもしその様な惑星が見つかって人類にとって驚異となれば、もしかしたら国境がなくなり地球が一つの国家になるかもしれないが、それまでの間、地球が一つになる事は難しいだろう。そして大きな理想を持ち、それを叶えたいのなら、まず周りの共有体の足元を固めねばならず、その土台があってこそより大きな願いを叶えることができるのである。
 さて、国家とは私たち個人による無数の、大きな情報のつながりであることは述べた。また、比較対象が存在すれば単純な印象によって国家を認識出来るが、それは実像ではないことも述べた。しかし、国家の実像を見ようとすれば、その輪郭は一つの情報によって太く描かれている事に気付く。それが「法」である。国民は法によって定められた範囲内の人間であり、法による加護を受け、義務を負わねばならない。現在ある多くの国家は、この法によって治められる形式、すなわち「法治国家」であり、全ての国家、国民は、その規定された法の内容を簡単に越える事もできないし、破る事もできない。つまり国家は法と言う情報が基準となり、枠となっていると言う事ができる。それゆえに政治において魔物のように扱われる「権力」とは何かを探れば、それは法を制定したり、改変したりできる力であると言える。皇帝、君主など専制者が国家を治めていた時代、国家のアウトラインであり基準である法は、全て国を治める専制者、またそれを助ける、もしくは代行する家臣達が担ってきた。我が国も同様であり、貴族、武家、将軍が政治的支配をおこなっていた頃は、法もまたその独占下にあった。普通の国民に何かの才があり、また何らかの拍子で専制者に目をかけられれば、身分を越えて政治に参加し、法に触れる事もできるが、一般の国民が政治に参加し法に触れられる事はまずなかった。視点を変えれば法とは専制者の意志であり、それゆえに国家は専制者のものと言える。それが専制政治なのであり、一部の人間が政治を動かし多くの意志や情報に目を向けない事を、現在でも「専制政治」として非難する所以はここにある。
 では、現在の民主政治において国家は誰のものか。それは日本国憲法に記されているように国民全体のものである。主権者である国民は政治的意見を自由に述べる事ができ、政治的な活動も認められ、また選挙によって法の作成に携わる代表者を選ぶ事ができる。議会制民主主義における国民は、法に対しての最終的な決定権はないかもしれないが、様々な訴えや署名などを集める事によっての意思表示、政治的情報の流布は、本来なら制限されず、多くの力が集まれば法の制定などの原動力になる。つまり、私たちは自由に情報を送受し、共有することで自身の属する国家について考える事ができ、その政治的な決定力を自由に行使できるのである。これこそが、かつての専制政治との最も異なる点であり、そして民主主義の理想であり必然性を示す糸口にもなる。そして私たちが法を定める力、つまり権力を保有しているのなら、国家の外観は私たち自身で決定しているとも言える。

2012年5月14日月曜日

国家とは何か・情報共有体(4)


 東西南北全ての国内の人間が現在の様な意思疎通ができるのは、明治以降、国語教育により標準語が普及したからである。従って、国家とは民族などの抽象的な認識よりも、言語などの実際的な表現情報によって形成、維持されているといえ、日本は決して単一民族国家ではなく、単言語国家なのであると、私は言いたい。むしろ、日本において日本語が使用出来なくなった時、また日本語が公用語でなくなった時、それは日本と言う情報共有圏でなく、新たなものへと変貌するはずである。それゆえに、言語によって意思疎通を制限された国家こそが、認識できる最大の情報共有体であるといえる。
 さらにいえば、私たちが情報を意識し考える時、まずおこなう方法が「比較」にある、これもまた国家が最大の情報共有体であると言う論拠となる。ある情報を考える時、データをつらつら並べられても情報が多ければ混乱するだけで実像が見えにくくなる。しかし、そこに比べる対象があれば、自らが持つ情報を梃子とした印象によって情報の輪郭を浮かび上がらせる事が出きる。一人で鏡の前に立っても自分がどのような体格の人間なのかわからないが、隣に人が並べばおおよその見当はつけられる。比較によって得る印象は、対象となる情報と比べただけの、一面でしか情報を表さない正確なものとは言い難いが、しかし単純でわかりやすくはある。国家を考える時も同じであり、確かに私たちは地球と言う一つの星に住んでいるが、他に生物のいる星と比べた事が無いため、私たちが宇宙においてどのような存在なのか漠然としすぎてわからない。この生活が幸福なのか、不幸なのか、発達した社会なのか、そうでないのか、比較対象が無い限り、私たちが地球に抱く感想は独りよがりのものであろう。もし、地球を良く知りたいのなら、人類が他の星に移植すれば比較対象が誕生し、私たちはよりいっそう明確な情報を手に出来るはずだ。
 この様に、比較対象が存在する事で、よりいっそう自己の属するものを意識でき、感情移入しやすくなるのである。ナショナリズムもこの様な観点から生まれる、至極単純なものなのである。当たり前の存在である国家としての日本を意識する人間は、日常において多くはないが、オリンピックやワールドカップなど、たとえ少人数でも日本の代表者が出て別の国家の代表者と対戦すれば、そこに勝ち負けはもちろん、身体能力などの参考データによる比較が「日本」と言う国家を意識させ、私たちは自ら属する国家に感情移入する。また、「外国へ行けば日本がよくわかる」と言うが、外国での生活、また異文化の交流等による経験が比較対象となり、そこから生まれた印象によって個人の中に国家としての日本の像が浮かび上がる。対象が存在し、それが比較されれば、その対象の形は漠然と浮かび上がってくるのである。ただし、この印象は形を為すものとしてわかりやすくなっているが、一面的な、もしくは少数の情報によるもので、決して正確なものではない事を私たちは常に承知しなければならない。わかりやすいものほど実像から遠い。情報が氾濫する現在、広告は意図的な印象を植え付け、政治的な流れも少数の「有識者」による印象によって決定されやすいため、国家は右往左往している。あふれるものの中から、私たち自身が知る努力によってより正確な像を浮かび上がらせねばならないのだが、どうであろうか。

2012年5月12日土曜日

国家とは何か・情報共有体(3)


 現在は媒体技術の発達によって情報が手に入りやすくなったと過信して、人間同士による相関関係はおろそかにされ、「業」を投げ出して一人で生きようとする者もいるが、それが実際にはそれほど簡単でない事は世に出て生活すればわかる事であり、他者との交際を避けて生きる事は、自分の持つ可能性や希望を捨てている事と同じであり、他者に知られないで生きることは「死」と同等であると私は思う。間接的に手に入れた情報には責任もない、ただの身勝手さが存在する以上、それが信頼できるものとは言えない。情報が自らの手で簡単に得られるものでないのなら、そしてより確実性のある、信頼すべき情報は、他者と繋がる事によってでしか手に入れられず、その情報によって私たちが生存を続けられるのならば、人と関係を結ぶということは既に共存手段なのである。そして共有、共存関係で、現在認識できる最大のものが国家となる。
 なぜ、国家が最大であると言えるのか。私たちの情報共有関係は、まず最も身近な家族、つまり親子や兄弟から始まる。成長し多くの人間を認識できるようになれば、その関係は多岐にわたって広がる事となり、それは親戚などの広義の「家」、近所などの地域社会、また個人的な学友、親友、趣味の仲間、それから会社での上下関係、人脈が挙げられ、そして自らが新たなる家族を形成する事で情報を次代へ繋げる関係も出来る。しかし、これはあくまでも個人を中心とした関係であり、見知らぬ他者も含めて考えればより広域の都道府県や国家、民族、また生物学、環境学的な分類、すなわち「人間」や「地球」と言った所にも相関関係はあり、私たちは縦、横、斜めへと、またそれを認知する、しないに関わらず、無数の関係を持っている。ただこれらの関係を考えると老荘思想にあるように、全てに、無限に求める事ができ、また霊魂や神など特定の人間が強く信じる情報に軸点を置き換えられてしまう事もあるのでよくよく注意をしながら見定め、考えなければならない。私は地球や宇宙と言ったより広範囲な関係性がある事も否定しないし、宗教などの特殊な情報軸も尊重するが、私たちが現実世界の中で共通して認識できる最大のものは国家であるとこの稿においては規定したい。
 このような限定的な考え方にしなければならないのには他にも論拠はある。そのひとつに、私たちが情報を共有するための手段が言語であることに注目しなければならない。言語が違えば、私たちは意思疎通を行うことが難しく、その難しさがしばしば争いの種になってきたことは歴史の中で証明されている。多民族国家の国は多いが、どの国家も公用語は存在するし、多民族、多言語国家において政治という人と人とのつながりの調整では特に言語による意思疎通が大切なため、その代表者は公用語が、また複数の言語を使用できることが条件となる。この日本においても、かつては方言によって他の地方の人間同士が、話し言葉で情報を交換することは難しかったが、文字は漢字や仮名で統一されていたため、意志の疎通を行うことは可能であった。それゆえに為政者にとって、これらの教養は必須であったし、逆に国民をそれぞれの地域に封じ込め、政治的な力を持たせないためにも、教育の普及など考慮に入れられなかったのである。

2012年5月10日木曜日

国家とは何か・情報共有体(2)


 縦の繋がりとはどんなものだろうか。例えば、私たちは食事をとり成長する。食料が、そしてその中に含まれている様々な情報、ビタミンやアミノ酸などいわゆる栄養といわれているものが、体内において蓄積した結果、私たちの血や肉となり、それが私たちの成長に作用しているからである。この栄養の蓄積は個人的なものだが、それは歳月をかけた情報の蓄積でもあるので、情報の縦の繋がり、つまり時系列上の繋がりであるといえよう。
 また、こういう繋がりもある。人間は通常、食事を2食、ないし3食とるが、それを記録すれば食事が身体にどう作用しているか解るはずである。その情報が細かく、正確さをつかめばつかむほど、人間の身体に及ぼす微細な因果関係までわかるようになるかもしれない。ただ現時点で、そのような高度な技術が想像の範囲を越えないのなら、その想像は個人が持つ点の情報にすぎない。しかしそれをを他者に伝え、それを基に研究し、その想像が技術として実を結べば、そこに情報の蓄積があり、それもまた情報の縦の連鎖といえよう。私たちは情報を認識するたびに「想」を得、それが記憶に残れば、それを起点として新しい「想」を生み出し、「わからない」と言う漠然とした情報から「わかる」と言う明確な情報をえる縦の連鎖が行われ、それが大きな歴史として確認できる。そしてまた、私たちの存在も、母なる海より出た生命の多様的な進化軸の一つであるならば、私たちの活動は、終わり無き縦の連鎖の一地点であると言えよう。
 縦の連鎖があるのなら当然、横もある。例えば、私たちが食について様々な事を知ることができるのは、情報が多くの他者から流され、それを共有できるからである。その方法としては、直接に人とやり取りをおこなうことで、また多くの情報媒体、すなわち新聞やインターネット、テレビや広告を通じるものがあり、そこで様々な食料の情報、すなわち価格や調理法、健康や料理の質などの情報を共有し、それが自己の生存の持続の糧となるならば、その繋がりは横の繋がり、つまり現時点で欲する情報を他者と共有できる繋がりとして認める事が出来よう。
 このような横の繋がりによる情報の共有関係は、自分が臨む、臨まざるとも、すでに生まれた時より始まっており、そして私たちは他者と情報の共有をすることで成長してきた。もちろん、この関係は決して無償でも無いし、時には大きな代償を払わなければ情報を得られない時もあるように、有形無形の複雑な関係が発生するが、しかしそれがなければ私たちは生き続けられず、またその関係性の調整こそが政治なのであると私は思う。
 多くの人はその事を忘れているが、私たちは生まれた時、生存を持続するための情報を何も持っていない。そしてそのような時期は生まれてより何年も続き、その間は親や周囲の人間より情報を得る事で経験を積み、それを選択する事で生存を持続しているのである。いうなれば情報は決して自得したものではなく、他者より「与えられた」ものなのであり、私たちは知る事を積み重ねる事で、その意志を、個人を形成して行くのではないだろうか。たとえ成長しても、無から情報を得る事が不可能ならば、未来永劫、他者との交際によって情報を手に入れ、確かめ、共有しながら生存しなければならないと言うのは、もはや「業」と言えるであろう。

2012年5月8日火曜日

国家とは何か・情報共有体(1)


 国家とは何か。それは広義の情報共有体でもある。人はその誕生から死まで多くの情報を交換し、共有しながら生活する。なぜなら私たちは決して一人で生きてゆくことはできず、集団を形成しなければ生存を持続出来ないからであり、そのためには私たち自身の持つ情報を共有しあい、共存における意志の統一が必要となるからである。そして私たちは情報共有集団、たとえば家族、親族など血縁、遺伝による共有、また村や町など地理的な環境内での生活情報の共有、また言語や習慣、文化など様々な情報を共有する集団に属しているが、国家はこのような集団を、法という情報を共有することで一つの大きな力とし、より確実性ある生存の持続を約束するのである。
 ここで私が述べる「情報」とは、実は前記のようにカテゴライズできるほど単純なものではなく、それは他者に「それを伝えることが出来る」、認識、存在するもの全てであり、その一方で非常に個人的なものでもある。身体的な感覚で得られるもの、また精神における創造物など、私たちが何らかの表現によって他者に伝えられる全てがそこに含まれ、それゆえに私たち自身、一人一人が情報の塊とも言える。逆に言えば、私たちが認識せず存在を感知していないものは、当然情報として成り立っていないし、存在もしていない。情報を個人を起点として考えるのならば、その個人が「知っている」ものが、その個人にとって情報といえる。ただ、もし「知らない」ものでも、そこに「知らない」という認識があれば、それは情報として成立し、それは好奇心や研究心などの種となる。たとえば、かつて私たちは、この住む地球の外がどのようになっているか「知らな」かった。しかしその「知らない」と言う事への認識が、想像を呼び神を生み出し、またその「知らない」ものを知りたいという欲求が科学へと繋がった。ゆえに全ての存在や認識、概念を自己なり他者なりに伝える事ができ、共有できるのなら、それは「情報」であると言える。そして私たち自身も、他者から見ればある一つの存在であり、それゆえに私たち自身も情報であるといえるのである。
 そして自らが持つ情報を言語やゼスチャー等の表現によって相手に伝え、認知させ、また相手から情報を得ることで、自分のおかれた環境を認識するこの相互の関係が、「情報の共有」である。私たちは情報を共有し、その連鎖的なつながりによって自己、そして集団の生存を持続させ、そして未来へと繋げている。
 この連鎖的な繋がりを単純に分別すると、時間軸による縦の繋がりと、また現時点からの横の繋がりがある。そして人はその誕生を起点として、この繋がりの関係を立体的に伸縮させて行く。生きるという事は、その死までの道のりをまっすぐに進んで行くが、そこには確実に情報の蓄積が見られ、また忘れるならば、それは伸縮する。またその歩みを点にすれば、その時点での他者との繋がりや別れが確認される以上、そこにも伸縮がある。これを立体的に解析すれば、それは人生となるであろう。

2012年5月6日日曜日

国家とは何か・自営と自給の観点から(5)


このように考えると、国家には自給と自衛という概念は必須のように思えはしないだろうか。現在の私たちは、金銭によってそれを調達しようとするが、しかしその金銭の価値が無くなれば、私たちは他者からそれを求める事が出来ない。そしてもしそうなれば、それらの必要とするものを私たち自身の手でそろえなければならない。それが出来ないのなら、より大きな集団に保護を求め、吸収され、その国家の一員となるか、もしくはそれが行えるレベルまで分解され、共存するのに不必要と考えられるものは捨てられる事になるのである。もし、私たちが現在の国家を維持し続けて行きたいのなら、「自給」と「自衛」は肝要であり、またその構成者である国民が、「分業」によってそれぞれの役割を果たさねばならないのである。


2012年5月1日火曜日

国家とは何か・自営と自給の観点から(4)


国家の発生は農耕による定住生活が行われ始めてからが定説だが、しかしその目的、つまり共存社会の持続の為の集団という意味でみれば、それよりもずっと以前から漠然と存在していた。例えば狩猟による食料採取をおこなう社会では、単独で行動するよりも、集団で行動する方がより効率が良かったはずであるし、もし獲物が見つからなくても、別の人間、すなわち女性などが木の実を採取すれば、それによって生存を持続できる。狩りにも道具が必要なら、それを制作する人間も必要になるだろうし、日本においては黒曜石の流通があったように、かなり広い範囲での人間の交流はあったようである。そしてこうした1つ1つの集団が次第に大きくなる事で、国家を形成していったのならば、その小さな集団は原形であり、そこには紛れも無く分業が行われ、自給と自衛が達成されているのである。
このような集団が、食料の持続的な供給方法、すなわち農耕を知る事によって、狩猟を捨て定住するようになった。共存社会の目的が、その構成員である各個人の生存持続にあるのなら、古代において自然と戦いながらそれを求めるのことから、自然を利用する事で求めるように転換していった事は、想像に難くない。
しかしこの転換は大きな問題をもたらした。狩猟社会においては移動生活であるため、物事に執着は出来ない。なぜならものを多く保有する事は移動の妨げになるし、彼らはあるものを利用する事を心得ていたのなら、特に定まったものがなくとも、その生活は困難では無かったろう。ところが農耕は土地を必要とする。その土地が広大であればあるほど、収穫も大きく、多くの人間が暮して行ける事になる。そして広大な土地だけでは無く、その土地を潤すための「水利権」もまた重要である。これは見過ごしにされがちだが、農業を営むものにとって見れば死活問題であり、現在も問題となるところが多い。誰もがこれらを求めるようになれば、そこに争いが起こるのは当然である。かつては現在のように、しっかりとした規範があった訳では無い。ただ、感情の赴くまま行動していた事は、日本神話からも伺え、それがゆえに、私は古代社会が必ずしも平和一途であったとは思わない。土地や水利の問題で争いは常に起こっただろうし、また自然災害などによって生産し失敗した時、共存社会を維持するために食料を得る方法として、最も単純なものは、よその集落から奪い取る事であったろう。そうでなければ、なぜ、あのような環濠を掘り、壁を作り、門をこしらえなければならないのか。そこには常に自衛意識があったであろうし、また非常の事態においてはまず自分たちの集団の維持を考える事に勤めた、人間の業が伺える。