2012年3月31日土曜日

憲法を制定するため、どうすれば良いか・2・国民の信頼を基とした明確なルール作り(1)


新たな憲法を制定する事は、新たな国家の創造であるといっても過言ではない。それ故に日本における全ての主権者は、この政治的行動に参加しなければならないが、どんな政治運動も、それが大きくなればなるほど混乱しやすいものである。
しかし、これから日本が大きな変化を向かえるのであれば、それはなるべく大きな混乱、つまりは血が流れ、破壊が行われ、日常生活が乱されるようなが無いようにしたいものである。そしてその変化を憲法を変える事で自主的に受け入れるのならば、その運動は民主主義制度のもと、健全なものでなければならず、それがゆえに運動の明確なルールは必要である。
政治的運動は、いつの時代もそうだが、純粋な政治的行動と私欲の実現行動が表裏となる。
純粋な政治的行動は、常に抑制によっておこなわれる。それはなぜかといえば、このような行動をおこなうものは、政治的な実現がその国家や共存社会の人間の信頼を得ねば成り立たない事を知っており、そして信頼さえあれば理想の達成が困難でないと信じているからである。ゆえに彼らは日常生活を乱す事なく、言論によって、著述によって、そしてまた集会や討論会などの対話によっておこない、そして必要なときには恣意的な行為をおこなうが、しかしそれはただ単に数の力を見せるだけの、静かなものにとどまる。しかし、このような活動は自己の実現の機会であり、私欲をかなえるチャンスでもある。それが理想をかなえるための、数の力を集めるための方便、つまり自身が行動の指導者などになろうとしているうちはまだよいが、そこに私欲をおりまぜ、例えば資金を懐にいれ、また物を奪ったり、騙したりするなど他者の信頼を踏みにじり、さらには暴力行為や破壊などによって、自己の鬱憤晴らしを行えば、他者の信頼を失うのと同時に純然たる政治的運動の正当性を失わせ、終わりへと導く事になる。その実例は、日本においては安保、学生闘争において、また近年の保守、革新、NPO法人からボランティアに至るまで、あらゆる政治的行動の場面で度々目にすることであり、それが国民を政治的な行動に疑いを抱かせ、それから引き離す原因ともなっていると私は感ずる。
最も国民を政治から引き離すのは、運動家によってだけではなく、統治者側の計画、またメディアが娯楽を求めるために、種を蒔いたからである事を、私は否定しない。陰謀論を信じようとまでは思わないが、しかし歴史が必ず勝者によって書かれるものである以上、そこに隠された出来事があるのも否定できないだろう。学生闘争なども、本当に左翼学生だけが各争乱、事件の端緒を開いたのかか否か、そこには当事者の入り乱れた主張があるし、政府などの公的機関が治安の名の下に情報を集める、もしくは鎮静させる手段として様々な手法をとってきたのは、戦前の日本からも、現在のアメリカ、中国、北朝鮮からも良く知ることが出来るはずであり、実際にそれを行っていない国はないだろう。国民が政治から距離を置く理由に、明確な答えが出せないのならば、やはり時代を変えようと志す人間は、これらの事を肝に銘じておくべきであるし、だからこそ私は全ての国民にその選択への参加を求め、その恐れの確率を少しでも下げたいのである。

2012年3月29日木曜日

憲法を制定するため、どうすれば良いか・1・2期に分かれる運動(4)


以上の方法が憲法を制定する上で最良のものであると私は思うが、しかし時間の消費と、国民の労力を考えれば、この方法に対して首をかしげ、実現は不可能であると思う人も多いだろう。国家の変革は数の力を背景として、性急果断におこなうべきである、そう考える人も多いはずである。しかし良く考えて欲しいのは、憲法を改める事は基準が変わる事であり、その基準の範囲が変わることで国家の形もまた変わり、私たちの行動範囲も変わるのならば、日常生活も変化する。そしてそれを良き方向へと進め、また変化による国民の不満を出来るだけ少なくするには、ごく一部の限られた人間に任せるよりも、より機会が増える国民全体による討議が必要ではないだろうか。ごく一部の選良が国家の方向性を決める事で、私たちは価値獲得の、経済的行動により多くの時間を割く事ができるが、しかしそれによって政治という普遍的な行為が専門化すれば、私たち自身が国家に対して意見や意志を述べる障壁は高くなり、内にも外にも閉ざされてしまう。しかもその専門家を選ぶ方法も、必ずしも確実な良い方法があるとは言えない。
もし、その選出方法に確実性があるならば、自然災害が多く、自給が難しく、外国の動向に流されやすい国家であるとは言え、日本にここまでの停滞は起こり得なかったのではないか。良い学校を出ているから、多くの人脈、財産、資産を持つから、企業における肩書きが良いから選ばれる、なるほど、その獲得にはその人間の才能や幸運が現れている以上、それを否定する事はしないが、しかしそれがそのまま政治的な才能の現れ、国家に対する忠誠と情熱を表しているのかといえば、それは話は別である。そしてそのギャップが明らかになる事で国民の政治不信を招き、国家という共存社会への信頼を低下させるものになっているのならば、そのような選出方法には問題があるのである。社会的に良い地位に就いている人間、また選ばれた人間以外でも、政治的に、人間的に優れた能力を発揮できるものは必ずいるはずだが、私たちは定型的な判断によってそれらの人間に対する機会を失わせしめている。だが、全ての国民がその選択を実行できれば、その過程において、彼らにも機会は与えられるだろうし、またそれらの人間の台頭は、既存の選ばれし人間の対抗心を燃やさせ、その持つ才能を遺憾なく発揮させる事になるだろう。それは国家の活性化へと繋がることになるはずである。そして私たち国民も、多くの選択肢が増え、また自ら参加する機会も増えるのである。
私は、この2期における政治的運動によって、政治的意識が国民に芽生える事を期待する。そして国民自身がその基準を選択すれば、基準に対してより忠誠を誓う事となり、その結果秩序が確保されれば、国家の成長もまた期待できるはずである。そしてその基準も変化を受け入れられるものならば、たとえその時誤った選択をしていたとしても、それを変える事も可能なのである。最もそれが間違いであったかどうか知るには時間が必要であり、法基準が簡単に改正されるのも問題ではあるが、しかしその機会は消して失わせしめてはならないし、その機会を使用するのも国民自身である事をより認識できるであろう。現在の基準を変え、新歩し、国民に政治的意識を明確にさせるためには、間違いなく国民運動が必要なのである。

2012年3月26日月曜日

憲法を変えるため、どうすれば良いのか・1・2期に分かれる運動(3)


多くの意見が集まり、それがテーマ別に分別されれば、さらにその意見を統合する作業が行われる。多くの意見には重複するものもあれば、また表現的には違えどその意義や趣旨は同じものもあるであろう。公的機関はそれらの意見の整理をおこない、そしてそれを発表しなければならない。それはもちろん議会に対してでもあるが、同時に私たちに対してもおこなう義務はある。意見はテーマ別に、そして各条文は選択肢としてまとめられるが、その提案に付帯する意見も、公論を助けるものとなるため、なるべく多く公開するべきである。それは政府が刊行する白書のような形式として、なるべく一家に一冊は配布されるべきであると思う。またインターネットによってそれを参照できるのならば、刊行物を配る必要はなく、費用も抑える事は出来るはずである。
これらの集まった意見を基にして憲法の草案を作るが、それは議会の仕事となるであろう。議会において新しい憲法の各章を定め、その条文は3つほどの選択肢に絞るべきである。様々な意見を少数の選択肢にまとめるこの作業こそ、新たな憲法の制定作業において最も時間がかかり、最も論議が必要な所となるはずである。ただ、私たちはこの作業を国会議員に任せねば、国会議員はその存在意義を失うだろうし、それを踏まえて私たちは有識、良識ある人間を議員として選出せねばならない。
しかし、選択肢からの意志決定を議会のみによって行い、そこで1つの草案にまとめ、その可否だけを国民に問えばよいとも思うだろうが、しかしそのような一元的な方法では、党派性とそれに付随する利益誘導が必ず議員の精神に根を張り、国民の無気力を招くのは、今までも政治史を見れば確実な事である。国民の代表者である議員が憲法の条文を起草する事は、立法府としての権限として認められるが、しかし新たな憲法の制定は、新しい国家の誕生であり、それが国民の選択によって行われるべきなら、条文に対する選択肢をいくつか用意し、複数回の国民投票において多数決で決定されるべきである。
憲法の条文を一時に決定するのは、その条文が百を越える可能性がある以上、それは時間的、また労力的にも不可能な方法である。それ故に憲法の決定は各章別に、何回かに分けて、全ての条文を国民に検討してもらい、選択するのが有効的である。このような方法だと、その選択の決定に矛盾が生じるという恐れがあるかも知れない。しかし選択は国民の意志であり、そこに矛盾が生じるのならば、それは条文の表現に大きく問題があるのであり、そこには意志を反映させる細かい調整が必要とされるのである。例えば国家において軍は欲しないが、安全保障のための力は欲する場合、国民は軍を拒否するだろうが、それよりも制限された力を持つ現在の自衛隊のようなものならば容認するだろう。安全保障のために力を保有するという意味において、この本質は全く同じだが、その細部が、表現が異なれば、国民のそれに対する感情もまた異なり、矛盾しているように見える事でも、その求めているものは全く違うのである。それ故に、国民の選択の決定に矛盾があるように見えたとしても、それが何か探り、新たな選択肢を提示する必要はある。

2012年3月24日土曜日

3月24日 街頭演説

先週の土曜日にはじめての街頭演説をおこなって、1週間、3回目にして今月最後の街頭演説になります。しかし今回は、少し風邪気味であり、また今週は仕事の後にも参加しなければならない地域の公務も多く、そうした疲れもあってか、あまりうまく演説する事が出来ず、2時間ほどで切り上げました。
 公開するべきか、ためらうところが有るのですが、拙い演説で何かしら得るところのある人がいればと思い、恥をさらすつもりで・・・。

 今月の収穫としては、演説によって多くの人に話しかける事で、何を訴えるべきか、自分の中でも少しずつ明確になってきた事です。私は、新しい憲法を国民の手で制定する事で、日本の未来に成長を、そして私たちの時代を私たちの手で築く事で、国民としての自信、そして政治意識の向上が得られ、そうした事がより良い日本を、そして未来を約束する、そしてそのためには様々な意見を持つ国民個人が、既存の思想、また宗教の枠にとらわれず、憲法を変えるためには同じテーブルにつく必要がある、これを訴えなければなりません。
 憲法論議は盛んにおこなわれていますが、現在の日本では仲間内だけの、また特化した問題だけのものに過ぎません。しかしもし憲法を変えるのならば、それは国民投票による選択と決定が必要である以上、まずは「どう憲法を変えるか」というところにスタンスを置くのではなく、「憲法を変える」という決意で国民一体とならなければなりません。日本の将来を考えると様々な方法論が、保守にも、革新にも存在するはずです。しかし将来の事を正確に知り得ない私たちは、その方法がどのような結果を生むかわからない、だからこそ話しあい、多数者の覚悟と責任を、またどれぐらいの人間が不満に思っているのかを投票によって明確にする、少数者の権力のみによって政治を動かすのではなく、主権者として国民が政治に参加する、このダイナミズムこそ民主主義なのではないでしょうか。もっとも恒常的にこうした選択をおこなうべきではないのですが、その事案が国民の生活に大きな影響を及ぼす場合、また国家の明確な範囲である憲法にたいしては、私たち自身で選択をおこなわなければならないと思います。

 こうした事を訴えるため、私は私なりに国家とは、政治とは、法とは何かを考え、それはいまだ未完の「時代は変わる」に記してきましたが、私の思想はあまりにも広範囲であり、しかもそれが互いにリンクしているため、手短に説明するのが難しい現状です。こうした苦しさは、きょうのわたしの演説にも表れています。

 他者に理解をしてもらいたい時、手短に、簡潔である事は必須です。そしてそのためには、今、常識とされている事をわざわざ説明する必要はないのですが、しかし私はこうした常識を見直す事が現在の日本には必要なのではないかと痛感しています。そしてそれを訴えると、手短に、簡潔には出来なくなる、ジレンマです。

 

憲法を変えるため、どうすれば良いのか・1・2期に分かれる運動(2)


また、憲法を改めるための投票を全ての国民がおこなう事にすれば、そこに公論は間違いなく喚起される。多くのメディアはこの投票に対して情報を発信するであろうし、また私たち自身投票しなければならないと知らされれば、そしてそれがどのように大切な事だと知れば、誰もが他者の意見を聴き、自己の意志をまとめる事になるだろう。そしてそれを選択肢に反映する事で、それは最良の結果を生み出すと私は信じる。
前期の運動によって日本国憲法から新しい憲法への移行が決定すれば、次の制定運動は様々な理想や願望によって、その案は多様的に提出される事になるだろう。ただ、それを受け止める機関がなければ、ただの混乱となり、結局は強大な党派、もしくは人物によって「与えられたもの」になりかねない。私は国民自身の選択によって新たな憲法を制定したいと望む以上、それだけは避けたいと思っている。
ではどのようにすべきか。まずは公的機関として、立法府である国会の傘下に「憲法制定準備局」ないし、「憲法案審議局」などのようなものを設けるべきであると思う。国民、議員、または各政党から多くの新憲法に対する草案は出されると思うが、それを取りまとめるところは必要となる。このような審議局がなぜ行政ではなく立法府である議会傘下におかれるのかは、それは立法行為そのものが議会が持つ独立した権限であり、国民の意見が原則として議員を通じて提出される以上、それを取りまとめる機関は議会へと帰結するはずである。しかし、現在の議員は党派によって強力な拘束を受けている以上、自身の党派に属さない国民の意見を素直に上げるかどうかは疑問があり、この運動は全ての国民によるものである以上、党派に左右されない中立的な機関が必要となる。それゆえに、この機関では、意見を議員からの提出と制限するのではなく、広義にわたって行うべきである。ただ、これらの意見の集約に多くの時間をかければ、その数だけが増え続け、取りまとめるのは難しくなるため、期限を半年ぐらいに区切ることは必要であると私は思う。
このような意見の集約機関において、まずなすべき事は、提出された意見を大別する事にあるだろう。それは憲法における各テーマ別、例えば日本国憲法で言えば、「天皇」、「国民の権利、義務」などのように、大まかなテーマに意見を分別することが必要となる。ただ、このテーマをどう決定すべきか、それは難しい事であるが、機関において集約された意見、またそのテーマの分別は、それが憲法の構成へと直結するわけではないし、各国家の憲法をみれば、そのテーマの分別方法も様々であり、特に定まったものはない以上、それを決定であるとしてはならない。それ故に憲法におけるテーマの分別も、国会において審議し決定するのが最良であると私は思う。全ての決定を国会に委ねることは、現在の政治家不信の私たちにとって納得できないことかもしれないが、しかし彼ら議員は私たちが選択するのであり、私たちは投票行為という単純な選択力のみに頼るのではなく、その候補者から私たちは積極的に参与する事で、国会、また議員に対する認識は変わるはずである。誰もが自国の事を考え、その良心によって積極性を発揮すれば、宗教勢力による勧誘など恐るるに足らないし、そのような狭義の国民しか考えない勢力を駆逐する事は可能である。国会はあくまでも全ての国民のものであり、一部の勢力の権力顕現の場ではないし、そのような勢力の助長を許してはならない。それがゆえに私は、党派や集団による議員の意志や発言への拘束は認めたくないのである。議員が国民に選ばれ、その意志を素直に発揮し、政党が議員を製造するのではなく、議員がその意志によって集まり、それが正当となるのが本筋なのであり、その観点から見れば、現在の政党は、その助成金などをみても単なる特権の持続であるにすぎない。そしてその正常な議員の意志が多数決によって決定することこそ、民主主義が制度として最良のものであり、効率的である理由となるのである。

2012年3月23日金曜日

街頭演説 3月22日

 昨日は会社帰り、そのまま駅のデッキ上でおこないました。
 所要があったため、17時30分から7時まで、4回程しか演説を出来ませんでしたが、先日よりは幾分かましなものになってきているとは思います。しかしまだまだ精進は必要です。
 私自身、憲法と国家を考える時、様々な問題に繋がりを求めて考えるため、また根源的なものを追求するため、どうしても訴えたい事が頭の中で錯綜します。メモなどで話したい要点をまとめているのですが、ついついアドリブになってしまう。とは言え、アドリブでないと何となく気持ちが伝わらないので、難しいところです。

2012年3月20日火曜日

憲法を変えるため、どうすれば良いのか・1・2期に分かれる運動(1)


憲法を新たに制定するためには、一人の力ではなく、主権者である国民全ての力が必要となる。
しかしその運動が日常を混乱させ、国家の秩序を乱すものであれば、それは私たちの現在を破壊しかねないものとなる。よって私はこの部において憲法を新たに制定するための運動方法と、そのルールを提示して行きたい。
憲法を新たに制定するための運動は、2期に分けるのが最も最適であろう。1つは現在の日本国憲法を改正、もしくは廃するための運動であり、そしてそれが実現すれば、次に新たな憲法を制定するための運動が始まる。
現在の日本国憲法の改正、もしくは廃止の運動は、新たな憲法がどのようなものであり、どのようなものにしなければならないという主張を抜きにして、ただ現状を変えるべきであるという意志によって行わなければならない。もし、新たな憲法が制定できるのならば、それに対する理想や意見、また欲求や願望を持つ者は多いだろうが、それは変更の決定後の話であり、その前提となる運動は大同団結して行うべきである。それは保守、革新、右派、左派問わず、新たな憲法に理想を抱く者全てで行うべきであり、そしてそれは国民全体で決定するべきである。
現在の日本の制度において、投票行為、また結果はその数字や率による制限を受けない。市町村の選挙においては、その人口に対比すれば、全くの少数で当選するという事実があるが、憲法という国家全体の基準であり、全ての国民への強制力に対しては、全ての有権者の選択が必要となるため、その数や率の制限をおこなう、もしくは投票行為を強制とし棄権を認めないようにしなければならない。
確かに棄権や白票といったものも、個人の感情から発するものならば、それを意志として認めなければならない権利ではある。だが憲法という国家全体、共存社会全ての影響に対して、棄権をし、無視するという行為は許させるのだろうか、そこに良心は存在するのか、と考えれば、私はやはり認めるべきではないと思う。投票の棄権行為を考察すれば、それは思想的な結果であるというよりも、単に欲求による、例えば面倒くさい、関心が無い、などの結果である事も多く、私も以前はそのような人間の一人であった。そしてこのような動機であるならば、その行為は日本国憲法の条項にも反するといえるし、それは民主主義国民として、主権者としての義務を果たしていない行為とも言える。私たちがこの権利を手に入れたのは、敗戦という大きな事件によってからかも知れないが、しかしその権利によって私たちは大きな幸福を一時的にでも享受できたのであれば、そしてその幸福を未来へと持続させたいのならば、それに対して義務を果たさねばならないし、度々書き記してきたが、それらの義務の放棄が私たちの国家を停滞させてきたのならば、それは改めるべきではないだろうか。

2012年3月18日日曜日

街頭演説・3月17日

 昨日、はじめて街頭演説をおこないました。 想像以上にあがってしまい、最初の最初は自分でも何をしゃべっていたのかわからず、頭の中は真っ白。仕方なく、用意していた会報を見ながら、何とかたどたどしく5時まで続ける事が出来ました。
  演説の模様を、YouTubeで公開しました。ビデオカメラのバッテリーの事を考えていなかったため、最初の2回、とてもお話しになっていない演説しか撮る事が出来ませんでした。よろしければ、ぜひ御覧下さい。 
次回は22日木曜日、夕方6時から7時までの予定です。これも準備が出来るのなら、公開したいと思います。なにぶん会社帰りにおこなうので、どうなるかわかりませんが、応援よろしくお願いします。

2012年3月16日金曜日

明日は

 いよいよ新歩会、そして私自身、はじめての街頭演説をおこないます。
場所は相模大野駅北口デッキ下です。ちょうどエスカレーターを降りたところ、マクドナルドの前あたりでしょうか。時間は午後一時より五時までの間、3回ぐらいおこなう予定です。
当日は、新歩会会報「青海波」を配ります。お天気が雨の予定で残念なのですが、興味のある方は、ぜひ立ち寄って下さい。
街頭演説は、22日木曜日と24日の土曜日にもおこないます。
今までは、机上で持論を展開してきましたが、志操に覚悟が決まった今、自主憲法制定を目指して、一歩づつ歩みはじめます。民主主義国家は、多くの人間が、自由に意見を言う機会を認められています。そして国民からでた様々な意見を討議し、それを多数決によって選択する、これこそが良き国家を築く方法なのではないでしょうか。
ただ、現在の日本において、実際にこの様な活動を行う人間を異端視し、蔑視する残念な傾向があるのも確かです。高齢者にとって見れば、若い人間が何を言うのか、といっても私自身もうすぐ40歳ですが、名のでしょうが、しかし国家は国民の集合体であり、また高齢者が若き人間に良識や良心を教え、次代の人間を信用し引き立てていけば、日本は現在、ここまでの状態にはならなかったのではと思います。単純に若い人間を避難する人が多いですが、しかし若い人間にも、国家の事を真剣に考えた上での意見を持つ人もいますし、そういう人達をもっと表舞台に出さねば、日本の将来は誰が牽引してゆくのでしょう。これからも、政党が生み、育てた人間を、政治家として崇めなければならないのでしょうか。もう、随分私たちは、学歴など「資格のある」人間に政治を任せてきましたが、現在の日本はどうでしょうか。私はおそらく、本当に理解してもらえるもでは、受け入れられないでしょうが、しかし実際に声を上げなければ伝わらないですし、一人でも多くの人に、何か残せれば、次代に日本を繋げる事が出来る、そう信じて行動してゆきます。
どうぞ皆様、よろしくお願いします。

2012年3月13日火曜日

新歩するために(4)


では、その国家像はどのようなものとなるのか。国家に属する各個人が多様的な欲求を持ち、そしてそれを実現しようとしているからこそ、それを適度に抑える共通の基準を作り、そしてその基準の維持、そして改正に国民が参加することによって、有る程度の、不完全な理想的な社会、国家を創れるはずであり、私の望む国家像はそのようなものでしかない。多くの人にとっては、より完全を、安定を目指したいため、このような答えに不満は抱くかも知れないが、しかしそれが完全であれば、国民の個性を認めず、均一化する強制を求めるようになり、それは国民の生への充実感を無視するようになる。あくまでも各個人の個性を尊重しながらも、しかし集団としての一線を作ることで、個人は国家という範囲に柔らかく包まれ、その母体の中で成長すればよいのではないだろうか。間違いを起さない国民はいないし、その間違えが故意によるものなのか、それとも偶然のものなのかによって私たちの態度も変わる以上、間違いを受け入れられない完全な国家は築けない。このような間違いを強権的に押さえ込もうとし、異端者を疎外する事は簡単であるが、しかしこのような間違いや異端者にこそ、国家や国民の抱える問題は浮かび上がるのであり、その解決が成長へと繋がるのならば、それを押し込め、封じる事は、国家を停滞から滅亡へと招く要因となる。戦前の日本のたどった道は、ある種の典型であり、当然の帰結であるといえなくもない。それ故に私は国家は常に不完全であり、またそれを求めるのが最良であると信ずるし、それがゆえに国家の基準もまた恒久的なものではなく、絶えず変化を受け入れ、改正できるものにすべきであるとも思う。
私たちは、明るい将来や希望を夢見るのに、自身の力、過去の行為によってそれを恐れている。それは当然受け入れねばならないことだが、しかし私たちはその恐れを知っているからこそ、最良の選択を行え、また基準を作る事が出来るのではないだろうか。金や軍の力というものを、そしてそれに拠りすがってしまう自身の弱さを知っているからこそ、その抑止力を作れるのではないだろうか。そして一度自身で抑止力を、基準を定めれば、それに対しての意識は高まるであろう。それを世代ごとに見直し、変化を受け入れる事で、私たちの国家はより良い形で持続できるはずである。
そしてそれが護られるのは、法などの基準だけではなく、私たち自身の「良心」によってでもあることを忘れてはならない。実際に私たちが完全であると思っている現行法も不完全なものであり、その為に法の編み目を潜るような行為も後を絶えないし、法に明確に定められていない事象も起る。ただ、国法として憲法があるのなら、このような事象や行為の帰結は憲法によって判断することも可能ではあるし、またそれらに対応するのは法以上に私たちの良心にある事は言うまでもない。良心は、自身を保護するだけでなく、他者との共存の道を選択する心であり、しかしそれは私たち自身の個性を殺すものであってはならない。私たちは良心によって自身の中にある悪心をも飼いならし、その善悪のバランスを以て自己の行動を確立するが、この異なるバランスが個性となると私は思う。個性の違いとは、人がその時までに得た情報と良心との力加減の問題であり、それを規定することは難しい以上、それを細かい枠に治めるのは難しい。だが個性にある良心を発揮できる人間を育てられれば、それもまた理想的な国家を創りうる要因となるのである。国家を創るのは、基準だけでもなければ、良心だけでもない。その両方が整うことを私たちは目指さねばならない。
私たちは現在大きな岐路に立たされている。世界情勢をみても、そこに大きな変化が起こりつつあることを知ることが出来る。ただ、その変化を自己の手でおこなうか、他者によってなさせるかによって、その結果は大きく違い、私たちが自己の生存を持続させるために集団を形成しているのならば、私たち自身で変化を行うことが、それを護る最善の道であろう。そしてその変化の行く先を過去と結びつけてはならない。私たちは現在においてでも様々な間違いを侵し続け、それは将来においても当然行うことであり、未然に、完全に防ぐことなど不可能ごとである。将来のことを知る術が無い以上、現在に最善を尽くし、また将来に対して希望を持つことこそ、よき道を選べるのではないだろうか。それは車の運転と同じであり、進行方向を見据えてなければ安全な運転が出来ないのであり、いくら危険に注意しても、脇や後ろばかりを見ていればそれは危険行為であり、事故の引きがねとなるのである。「他人の気持ちがわからない」、「どうして自分のことを受け入れてくれないのか」などと悩む人間も同様であり、他人の気持ちなど、その他人しかわかることがなく、また自己の気持ちも他人が知りえることなどない。ただ、自身がまっすぐ前を向き歩き続ければ、そこに道はあるし、それでも事故は起こるのである。しかし、私たちはそれを乗り越えなければ前へと進めないだろう。それは日本も同様であり、いつまでも私たち自身の将来を、戦時中の日本、学生闘争時の思想行動と結びつけてはならず、それぞれが心の中にもつ信念を政治に参加させればよいのである。当然全てが受け入れられるわけではないし、実現するわけではないが、しかし私たちには機会がある以上、自己の主張を続ける事は可能であるし、また自己の主張の批判を受け入れることから成長が始まるのではないだろうか。そして私たちは、自己が、他者が、その生存の持続を願う間は、新歩しつづけなければならない。

2012年3月11日日曜日

新歩するために(3)


さらに言えば、そこには愛が無い。現在の国家批判者の多くは、自らが国家や国民に対して愛が無い事を誇らしく述べるが、では彼らは何を愛して批判するのだろうか。対象に対して愛が無い批判など、ただのぼやき、不満の露出、そしてそれは正道では自己の欲求が叶わぬため、間道から、搦手から、それを実現する方法としか思えない。つまり私は、現在の批判者の多くは、国家や国民の事を考えず、自己の事だけを考え批判をし、徒党を組んでいるようにしか見えず、そこに良心は存在するのかと疑問に思うのである。批判者の党派性、基地運動やボランティア、生活保護者の一部の動向は、まさしく自己の生活のために行われているのであり、そこに良心が無い事は否定できないはずである。
一方で無関心者達、これは選挙にも行かず、文句も、不平も言わず、ただその日その日を生きている者達だが、私は彼らに対して催促以外するつもりが無い。彼らの多くは、国家や国民、自由や権利というものがどのようなものか、与えられた情報以外では知らず、また自分の力などちっぽけなもので通用しないというあきらめから、無関心を選択するのであろう。彼らは自己の生活が安定していればそれで良く、それは自分の努力によってなされると考えているため周囲に無関心でいられるのかも知れないが、もしそうだとしたら、それは思い違いである事ははっきり述べておきたい。私は個人の努力を否定するつもりもないし、非難するつもりもないが、しかし社会は見えざる手によって他者と繋がっているからこそ成立しているのであり、その社会の中で生活しているのならば、自分一人の力で何かができる事など無いのである。私たちには自由や権利があるが、しかしそれは全体の中の一個人であるからこそ、それが保障されるのであり、この全体、つまり国家などの共存社会が消えうせれば、そんなものなくなってしまう。現在の日本において、どんなに個人が頑張っても、一向に先に進める気分になれないのは、その力が各個人にしか働かないため、その力の総和としての国家としての動きが無いからである。そしてそれは多くの無関心者達によって引き止められている。私はこの無関心者達が、その持つ力のうち、ほんのわずかでも政治に捧げ、社会の力を信じてくれたら国家は変わると信ずる。ただ、私は変化によって国家がより良くなるのか、特に短期的には保障できないため、無理にとは言えないし考えを押し付けるつもりもない。だが彼らが良心を持ち、その総和によって国家を変えようとするならば、それは決して間違った方向に、悪しき方向には行かない事だけは断言したい。そして、それをより確実な、成長の方向へと向けたいのならば、私たちは民主主義国家の国民として、義務を果たし、様々な事に関心を持ち知らねばならないのである。このように単純に互いを知る事によって、また国家を愛し他の国民を信頼する事によって、より良い国家に向かう事が出来るのではないだろうか。

2012年3月7日水曜日

新歩する為に(2)


戦前の日本においても制限付きながら民主主義制度が存在していたが、敗戦まで為政者による国家の動向に右へ倣えだった理由は、国民が民主主義そのものを十分に理解せず、その選択が常に与えられた情報を基とした判断であったからであり、彼らには「信じる」ことしか出来なかったからである。政府や軍は自分たちに有利な情報を与え、メディアはそれを後押し、官憲はそれに目を光らす。現在のように視覚を多いに活用できるテレビなどの情報媒体もなければ、目の前で起こっていることを瞬時に伝えられるインターネットなどもない時代、国民は与えられた情報を信ずるほかなかったであろう。また、それを信じなければ投獄されるなどの情報を聞けば、誰もが自分の意志や疑問を素直に伝えることに慎重になり、さらには初等教育より思想的な強制がすり込まれれば、自己の安定のためには他者を排除することを容認する国民が生まれても当然である。ただ、このような排除はドイツであり、ソ連であり、また自由の国アメリカにおいても「排日移民法」が存在し、黒人などの異人種に対して差別があったことを考えれば、単純に日本だけを非難することは出来ず、繰り返される人間の所業の一種であり、当時の日本人が悪意に満ちた民族であると決めつけることはできない。しかし、私たちは戦争で負けた以上、またそのような無謀な戦争を引き起こした以上、そのような愚かな行為をおこなう人間の罪を一身に引き受けねばならず、それがゆえにぬぐい去れない印象がいつまでも続くであろう。
自己を守るために自己の意志を述べず、意志を表した者の動向を見て、その見えざる多数決の判断によって行動する。いわゆる「空気を読む」という事だが、このような国民の行き着くところは、互いに信ぜず、公に認められた意志に従うだけで、そこに異論を含む者、意志に反する者に対して、自己の持つ本当の意志とは関係なくそれを排除する行為となる。自分の意志を述べられない国家は、そこに互いを観察し合う猜疑心が生まれる以上、国民の良心を失わせ、その和の力は弱くなる結果を産む。一方通行の情報流通はまさしく日本人をこのような国民へと導いてしまったが、現在の、双方向の民主主義国家の日本ならば、本来ならそのような方向に進む可能性は低いはずである。私たちは他者に危害を加えたり、損害や不快を与えない限り、その言論や表現を公的に規制はされないし、そのような法律も存在しない。そしてその溢れる情報の中で、一人一人が自分の意志を作り上げ、それを話し合いや討論によってより深化させ、選択肢を作り、最良の答えを多数決によって導き出せるのならば、私たちは二度と、国際社会の中で自己中心的な、間違った道には進まないはずである。ただ、現在の私たちの状況を見れば、再び一方通行の情報流通に立ち戻ろうとしている節があり、誰もが積極的に自己の政治的意志を述べようとしないため、疑心や不信、排除性が生まれてきているのも確かである。そしてこれが、日本という国家が過去に立ち戻る不安を想像させるのを、私には否定する事は出来ないが、現在は過去の日本のように国民の選択の幅が狭い訳でなく、国民が積極的になればその力も発揮しやすい基準が定められているのならば、自己回復の余地はあるはずだし、新歩の可能性や機会もあるはずである。
現在の日本に対する批判者は、戦前や戦時中の日本人の所業によって、そして特に現在の日本の中核をなす「団塊の世代」は学生闘争などの政治運動での経験によって、また普段の経済活動の中で、国家という集団を、そしてそれに属する国民を信じなくなってしまったといえよう。しかし私たちがなぜ国家を創ったのかを考え、また現在の多くの批判者達、無関心者達も国家に属し、その恩恵を受けているのであれば、国家という集団は私たちの生存の持続に対して、必要不可欠なものであることが理解できるはずである。国家や政府、そしてその政策を、また国民それぞれの奢侈や欲求、生活態度を批判する事は大いに結構な事であり、この批判がなければ国家は健全なものになりえない。批判がなければ問題は浮かび上がらないし、多様的な見方による批判があれば、その問題の解決はより多くの選択肢から選ぶ事が出来、それが最良である確率も高まる。それ故に私は批判自体を否定しないし、現に私がおこなっている事も批判である。ただ、私は批判が自分たちの属する集団を、そしてその構成する各個人を受け入れず、信ぜず、そしてそれは未来へ向かって拘束し、その進む道を疎外している事に我慢がならず、そのような彼らを私は批判したい。

2012年3月5日月曜日

「新歩」する為に(1)


ここまで長々と、日本国憲法を変え、新たな憲法を国民の手によって制定しなければならないことを論じてきた。ただ、この拙い論述をたとえ理解してくれる人がいても、理想論以上の大きな壁が立ちふさがり、それによって論以上の領域をでない、つまりは行動へと一歩踏み出す事が出来ないかも知れない。その動機こそ、今までの改憲論に対する攻撃の核心となるものであり、それが常に論以上に進まなかった理由、すなわち「憲法を変える事で戦前の日本に逆戻りしないか」という不安である。そしてこれがために、私たちは新たに歩む事、すなわち「新歩」することが出来ないでいる。
改憲論議の主題となるものは、現在の日本の最重要課題である国債などの財政問題よりも、安全保障、すなわち軍という力の保有の問題や愛国心や社会保障、国民道徳などが多い。日本国憲法を変えるべき理由は、実に多くあるのだが、しかし改憲論議を、時には論議にすらならなくさせるためには、ただ一点のことを国民に訴えればよい。それはこれらのことを憲法で定めれば、間違いなく戦前の日本へと逆戻りし、私たちの自由や平和、様々な権利が、一瞬にして失われるという不安である。これはまさしく現在の日本人の精神の奥底に刺さったトゲであり、私たちの新歩を停止させるほどの力を持つものだが、それはもちろん歴史的な事実によるものであり、現在、また将来においても背負わなければならないものならば、それを意識せずにはいられない事は確かである。しかしこの歴史的事実と、私たちがこれからおこなう選択とは、直接的な関わりは何もなく、憲法を変える事で日本が戦前に立ち戻るという事は、憲法を変える事で日本が成長するという単純な結論と同様に、何の根拠もなく、誰も私たちがどのような選択をし、その結果がどうなるかを類推以上に知ることは出来ないはずである。
日本が戦前、戦時中におこなった、植民地政策や数々の自由の封鎖、弾圧は、その当時の世界的な諸事情が背景にあるとはいえ、それが極めて悪意に満ち、独善的であったことは否定できない。なるほど、日本の植民地政策によって多くの国家に文化や技術、社会整備がおこなわれた事は認めねばならない。しかしそれは良心的なものを動機とした、その地域にいる人達の事を考えた上での事であろうか、もしそうならば、なぜあれほどの抑圧が行われ、自治は認められなかったのか。ここに答えはあるはずであり、それを知れば知るほど、私たちは国家という集団とその持つ力に、不信や不安を抱くのも仕方がない。
植民地、また占領地域政策に、どんなに高邁な理想を掲げていても、それは日本国民だけの、さらにいえば、その中のたった一部の人間の欲求や安定を叶えるためだけの所業であり、それがゆえに徹底的な強制と弾圧が連鎖的に行われたのは事実として記録されている。その構造は、将官から厳重注意を受けた佐官が下士官を殴り、その下士官が兵隊を殴り、兵隊はその中でも弱き者ををいじめ、虐げる連鎖した行為であり、それはそのまま為政者、国民、植民地、外国人へと置き換える事が出来る。そして国民を含め、日本の支配地域においては、誰もが与えられた情報に対して疑問を持つ事は許されなかったことは、この行為を大きく助長した事は間違いない。そういった観点から見れば、一般の日本国民はただ言いなりになっていただけであり、その国民性による行為でなかったといえるかも知れないが、しかし行為が事実として残り、それが歴史に刻まれている以上、それがどのような理由であろうとも過去の選択は否定できず、その日本人と同じ血を引き遺伝的なつながりを持つ私たちに、同じような繰り返しを行う不安をぬぐい去れない事は確かかも知れないし、外国人がその印象を持って私たちを見続ける事をやめさせる事は不可能である。

2012年3月2日金曜日

平和的な変化を求めて(4)


先の章でも述べたが、私たちは民主主義、また国家ということに対して、今まで「与えられ」続けてきたせいか、あまりにも無知である。そして無知であるからこそ、権利などは自己のためのものと思い、良心を失いかけている。しかし個人の自由や権利、保障などは、日本という国家あってのものだということを忘れてはならない。そして国家という共存社会を持続させることが、最小限の代償により変化を受け入れる事が出来、そしてそれこそが自己の生存の確保であることを忘れてはならない。自己の欲求の限りない追及は、その属する共存社会の強弱次第なのであり、社会が弱小であれば、自己の欲求のかなう程度もたがが知れている。そしてそのような脆弱な社会の中で、自己の欲求を大きく達成させようとしても、国民誰もが主権者として同じように求めるならば、それは必然的に潰し合いとなる。昨今の政治、経済、また文化において、どれだけ長く息をし続ける人間がいるであろうか。牽引者となるべき人間は、芽のうちに潰されるだろうし、もしそのような志を持つ人間でも、長いものに巻かれている間にそれを忘れ去ってしまう。そのような国家が果たして強く、成長できるのだろうか。
このようにして小さくなった力を補う結果が、現在の日本では将来への借金、すなわち国債なのである。以前の専制者などから見れば、私たちの安定という欲求は小さなものだろうが、しかし主権者としてそれを誰もが願うならば、その和はとてつもなく大きい。自分たちの力で返せないほどの借金を背負い込む、その欲求の巨大さに私たち一人一人が気付かねばならないのだが、私たちの無知はそれに気付かずにおり、今尚それに頼ろうとしている。ゆえに私はこの稿を書き、国民の感情を喚起したいのである。これを読み、怒り、嘆き、笑い、嘲りなどの様々な感情が起こるだろう。私はそれらの感情を説得したいのではなく、むしろどうしてそのような感情が自己に沸き起こるのか、考えて欲しいだけである。そしてそれを他者と話しあい、様々な納得が次第に寄り集まる事で大きな力となり、その先の変化を突破できるはずである。現在の日本から恩恵を受けているもの、また変化を自らの手で引き寄せたいもの、現状の不満を変化によって転化させたいもの、それら全ての国民が主権者として未来を考えることで、血を流さず、暴力を排除して、ただ言論によって、時代を変える事が出来る、そう私は信じている。
私たちは既に民主主義国家の国民として、その方法論を良く知っているはずである。ロシア、リビア、エジプト、その他様々な国でも、変化に際して様々な混乱があり、それは連日伝えられている。しかしこれらの国家の国民が、果たして民主主義国家の国民なとしての姿なのか、その為政者たちは民主主義国家の国民として適当であったのか、専制的な方向に偏っていたのではないだろうか、そう考えると現在の日本は、まだ、民主主義的な国家であるといえよう。言論が解放され、それが国民の政治的意識を目覚めさせれば、誰もが国民を信じようとし、また自国の方向を真剣に考えるはずである。そしてそれこそが、混乱の無い変化の受容と更なる成長を約束する。私たち自身を信じ、多数決の力を信じ、労働すべき時間は労働を行ない、自己の時間は自己の時間としてすごす。ただ、その空いた時間のほんの一部を共存社会のために割き、話し合いをおこなえば、互いに情報を「与え」「与えられ」ればよいのであり、国家の変革にストライキをおこす必要も、投石をする必要も、他者に強要する事も、軍が出動する必要もない。最もそれは現在の為政者次第とも言えるかも知れないが、私たちが良識をもって為政者たちを、その候補者から選択まで真摯に取り組めば、為政者を疑う必要はないはずである。それが惰性で行われているからこそ、為政者を信じられないのである。平和的に変化を受け入れるためには、私たち自身、良識とバランスをもって、政治に参加すれば良いのであり、それこそが理想であるといえる。その決定がどのように転ぶかは歴史によってわかるのであり、納得によって行われた選択は、目先の損得に惑わされる事ないであろう。
そしてその旗印として、私はまず日本は憲法を変え、変化を受け入れる第一歩としなければならない、そう思っている。変化の代償や負担がどこかに一方的に偏るのではなく、また我慢を強要される訳でもなく、不当に財産を奪われるような事が無いためにも、そして国際社会の不安や不満を跳ね返すためにも、私たち国民は自身で民主主義国家国民として脱皮しなければならないのである。