2012年1月31日火曜日

国民の良心と政治意識の成長(2)


基準とは、共存関係を維持するために個人を抑制させるものである。「法の下の平等」という言葉があるが、それは一人一人が全く別個の存在である私たちを、均一化せしめる事でもあり、そこに強制力が働く事はいうまでもない。それ故に他者に対して基準を行使する事自体が、すでに相手の自由を奪う事となり、基準を再認識させるため、また損害に対しての責任を意識させるために他者を抑圧する事は、時と場合を考えねばならず、そのためには、その人間のおかれた状況や立場というものに対しての考慮は必要となる。例えば、子供が学校のガラスを割ってしまう。他者のものを壊し、破壊する事は基準に照らし合わせれば許されざる事だが、しかしその行為の結果だけを聞き子供を責めることには、良心が存在しているとは言い難い。子供がどうして窓ガラスを割ったのか、それが野球で子供の撃った球が、運悪く窓ガラスを打ち破ったものだった場合、子供が故意に割った訳ではないので、それほど重い責任を意識させる事はないだろう。ただ、公共のものに対しては十分注意を払い、なるべくなら球が届かない場所で野球をやる事を進め、ただ行為の責任として窓ガラス代を弁済させるのが妥当な処置である。しかもそれはその割った子供だけではなく、野球をおこなっていた子供たち全ての責務とするべきである。もし、それが部活での、指導監督の下でのものならば、なおのこと責任は軽くなり、この場合なら逆に学校は窓ガラスにネットを張る対策などが必要となる。このように、事情に合わせて基準を適応して行く、それが良心であるといえる。
しかし、子供が悪意や欲求に従った結果、窓ガラスを割ったのなら、それは強く責任を意識させねばならない。子供にはその行為が間違っている事を意識させ、なおかつ窓ガラス代も弁済させる、つまり行為に対しての代償が発生することを認識させねばならない。そしてさらにそれが悪質であり、被害が甚大ならば、その行為と責任を意識させるために、その属する共存社会の公の手、すなわち司法の判断を仰ぐ必要になるだろう。子供たちも個人である以上、その行動や感情も千差万別であり、その全てを教師や学校に任せ、教育によって矯正する事は不可能である。それ故に悪質な基準の逸脱行為がどのような結果となるのか知らしめるのも、教育の一環であると私は思うし、そのためには公の手を借りる事は共存社会として当然の事と思う。世間一般的に良心とは、たとえ悪質なものであってもその行為をかばい、それが間違っている事を本人が自覚するまで耐え忍ぶ事を指すのかも知れないが、被害者たちにそれを押し付けるのならば、それは良心とは言えない。ただ良いと思える事、すなわち正義や同情が時に争いの種となり、多くの人に苦痛をもたらすのは、その動機は良心的なものだが、行為や方法が強制的であったり、力を使用したりするなど、実に良心的ではないからである。良心とはあくまでも共存社会を主体とした私たちの心の持ちようであり、それは自発的なものであって、強制があってはならない。よって共存社会における基準を維持し、秩序を守るためには、悪意ある行為に対して正当な罰を加えるのは当然の事であり、それを良心という甘やかしや被害者の我慢などによって放棄してはならないのである。ただし悪意ある行為に対して、過剰な力によって基準を認識させる事、つまりは必要以上の罰を与えたり、反省をしているにも関わらずその人間を疎外したりする事は、それも良心とは言えない。行為を裁く基準には強制力がともなうのならば、その行使自体が力による拘束となる。さらに罰則は拘束以上の力の行使である以上、その決断には慎重さが必要となり、ゆえにそれを行使するものは選ばれた者となり、また国家には司法という独立した権能が存在するのである。
私たちは他者の間違いやミスなど、基準を逸脱、もしくは違反した行為に対して、簡単に基準を振りかざし、感情の赴くまま罰を与えようとする。しかしそのような、例えば言葉などによる精神的な苦痛や、また暴力など肉体的な抑圧による罰は、ただ自分の鬱憤晴らしにすぎず、欲求によって基準を逸脱する加害者と同じ立場にあるといってもよい。虐待やいじめなどは、主に基準からはみ出たものに対して行われるものだが、しかし実際はそれを行っているものの法が遥かに基準を逸脱しているのであり、それは許されるものではない。そしてそれが連鎖的に、すなわち暴力が屈辱や復讐を産み、そしてそれが拡散すれば、共存社会における秩序の維持は難しいものとなる。こういった行為に対して私たちは良心を持って厳然と対処するべきなのだが、そのきっかけが基準の逸脱行為などだとわかれば、急に矛先を治め、さらにそれを行使する人間が力を持つものならば、口をつぐみ傍観者となる。ここに良心は存在するのだろうか。

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