2012年1月21日土曜日

国家の基準の再編(1)


「法とは何か」と問われれば、私は「特定の集団内における共通の基準」と答えたい。法は集団内における個人の行動の抑制、そして解放の基準であり、また私たちがその集団の為におこなう義務の基準でもある。この基準は主に私たちの行動、欲求そして共感が動機となって成り立ち、その数も各集団によって異なるが、憲法が存在するところではそれが基準たる法を統べる最高のものとなる。日本国憲法第98条には「その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為」は効力を有しないとあるが、この憲法の持つ最高法規性は他の国のにも記されており、むしろそうでなければ憲法の存在意義はない。どんな法や命令でも、それは憲法の定める基準を超えることが出来ず、またそれはどんな悪法であっても憲法との整合性を見出せれば成立するし、このことは戦前の日本における憲政史、法制史を知れば十分理解できるはずだ。
集団における基準である法の中の法である憲法は、国境線などと同様、国家を形作る範囲であるといえ、私たちは憲法が効力を発揮している限り、その範囲を越えられず、そしてそれは変え難いものとなる。しかし、そのような性格を憲法が持つ以上、その基準は漠然とした抽象性を確保しなければならない。それはなぜかといえば、私たちの行動や欲求は、個人によって全く違い、その数も個人の存在数だけあるならば、それは表現によって画一化できるほど容易くはない。国家や社会は一つの集団とされるが、それを構成する人間は全て似て非なるものであり、その立ち位置が微妙に違うからこそ個人を確立している。しかし、その個人が一人ではその生存を全うできないため、1つの集団となって共存を目指すしかなく、ゆえに共通の基準は必要となる。その基準が法であるのなら、原則的には曖昧であってはならず、誰もが守れるものであり、その集団内に属する人間を包み込むものでなければならない。
法が制定される動機は、その集団内における人間の行動の問題、もしくは集団の力を必要とする欲求である。ではそ初めからそれを予測し、基準に当てはめることが出来るのかといえば、私たち自身が未来もわからないように、先の事を知る術が全く無いのなら、それは不可能である。それゆえに同時代において、法は増えはするが決して減りはしないであろう。現在も国会が開かれるたびに新たな法律が立案、制定されるが、それは未来が読めなかったがゆえに現在起こる問題に対処しなければならないからであり、そして問題はこれからも際限なく増え続け、その終わりはない。人間の行動は日々変化するし、それを取り巻く技術や文化も多様的な変化をおこなうのなら、この事は一片の真理たりえるだろう。
漠然と歴史を眺めれば、私たちは一見同じような行動を繰り返しているにも見え、それを「歴史は繰り返す」と例えるが、刮目すれば、それは似て非なるものであることがわかる。それ故に基準は新たな問題に対して常に増え続けるだけでなく、時代に即して変化してゆけるようにもなっている。だが基準がたやすく変われば、朝三暮四という熟語があるように、私たちはそれをいちいち認識する事が難しく、またそれが変わり続ければそれこそが混乱の基となる。それ故に、私たちは不安定な存在であることを知るからこそ基準に対して恒久を求めがちだが、基準はいつだって私たちに合わせて変化し、私たちも基準が不変であると信じているからこそ、それを変えようと挑もうとするのである。そしてこの矛盾は常に政治によって解決が図られるのであり、集団において政治が変われば、また法も一変し、その恒久を願うのである。日本においてもその経験は十分に行ってきており、時代が変わり、主権者が変わる事に、その基準も変わっていった。当時の国民にとってそれは望む所ではなかったかも知れないが、敗戦より日本の基準が大日本帝国憲法から日本国憲法に変わることで、国家が変化し、その結果成長したことは紛れもない事実である。それはなぜなのか。

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