2012年1月16日月曜日

日本国憲法を変える理由(1)


これまでの稿で、私たちの周囲は常に変化が起り、それゆえに私たちの生活の「安定」とは、波打ち際で砂の町を守り続けるような多大な労力を必要とし、それは幻想に近いものである事を述べてきた。ただ、これらの事は本題である、「なぜ憲法を新たに制定せねばならないのか」の前提に過ぎない。しかし、この前提を認識していなければ、私たちの変化を受け入れる姿勢は、ただ我が身を守るだけのような、後ろ向きのものとなるだろう。それは短期的には自己を守り通す事が出来ようが、その為に他者を犠牲にし、その連鎖を見過ごしにするならば、結果的には私たちの生存を支える共存集団である国家をも崩壊へと導くことになる。それゆえに私は国家を必要とする一個人として、その集団の持続を願うのならば、私たちの力を結集して変化を受け入れ、その為に新たな憲法を制定せねばならないと思う。
ではこれより、なぜ憲法を新たに、そして私たちの手で制定せねばならないのか、それをもう少し具体的に述べて行きたい。
日本国憲法の改正論議は、現在までの間に幾度ともなくあったが、皆、本格的な討議になる前に立ち消えになる。この理由として考えうる最も素朴なものは、「なぜ日本国憲法を変える必要があるのか」だろう。日本国憲法はその理念も、またそれによる恩恵も、どちらも私たちには印象深く、忘れてはならないものである。戦争の原因となった軍国主義からの解放、私たちへの自由と権利の授与など、日本国憲法が敗戦後の日本人に与えた政治意識は大きなものがあるし、それは現代人にとっても、平和に対する思いや幸福の追求など、様々な面で憲法を国家の良心としている以上、それを変える事こそ何か魂胆があるのではないかと疑い、恐れるのも、もっともな事である。
私も日本国憲法の法理念はとても素晴らしいものであると思うし、敗戦後の復興と成長の根幹になる基準として、その功績は計り知れないと思う。かつての様々な規制からの解放が、どれだけ国民に多様的な成長をもたらせてきたかを考えれば、日本国憲法の法基準は非常に優れていたものであったと言わざるを得ない。しかし、その法基準、法理念が、現在の日本の背景になっていることも否定しがたい事実である。現在の国家状況が主権者である国民の選択した結果の連鎖なら、それは日本国憲法の作用の結果でもある。財政を逼迫させ国債発行の理由である様々な権利や保障、政策と言ったものは、全て日本国憲法の範囲内でおこなわれている事実から目を背けてはならない。政治献金や選挙区の問題から、公務員の給与、独立行政法人の会計、そして生活保護や子供手当てなどに至るまで、あらゆる問題は理想的である日本国憲法下におけることであり、憲法が私たちの行動の基準となる以上、その問題の根本的な解決のためには憲法を論じることを避けてはならないのである。日本国憲法は大日本国憲法の拘束から国民を解き放ったが、その解放する力が更なる拡大を許し、今やそれをを止める術はない。自由や平等、個人や幸福といった憲法に記された言葉が、無分別に、ただ生活の「安定」のために使用され、今度は逆に国家を解体へと導いているのもまた事実の一端なのである。

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