2012年1月14日土曜日

安定という不確かなものの依存からの脱却(4)


「安定」とは現状を持続させたい、私たちの願望、または欲求である。そしてそれは巨視的に見れば、人類や地球、または国家、そして基本的な権利の存続になり、狭義においては、ただ、私たち自身にかかわる、生活や財産の維持となる。そして現在の私たちが求める「安定」とは、この狭義によるものが大であり、それがあらゆる政治活動の動機となっている。ところが、それによって実は国家は悪い方向へと「変化」しつつあり、「安定」への願望が不安定な将来の原因となっていることに、私たちは早く気付かねばならない。「そんなことはなく、安定こそがよい社会の実現への礎である」思うかも知れない。もちろん、私はその願望の全てを否定する気にはなれないし、その恩恵を十分に享受していることも承知している。ただ、その安定が過去からの受け継ぎに過ぎず、私たち自身で産み出したものではなく、またそれを維持する力も将来から借り続けているものであり、私たち自身の力のみで行っていないことを、私は疑問視し、変えなければならないと述べたいのである。
ではこのような「安定」の影響とはどのようなものかといえば、例えば高度経済成長の結果、その成長に比例して日本人の労働価値は高くなった。しかし現在のような経済下降期において、その経済力に比例して下がるのではなく、労働の価値を安定して維持しようと勤め、それは安定している。しかしその維持のために、企業は雇用体系を変革し、また合理化などをおこなわねばならず、それでも日本人の高い価値は支えきれないため、工場を世界各地に移転し始めた。その結果、かつては日本の基幹産業であった製造業の空洞化は避けられないだろうし、それは雇用にも直結している。実際に失業率と生活保護者数は増加傾向にあるし、現状の安定を望めば、それはもっと悪い方向に行くであろう。
また日本の経済的状況とは反比例し、経済通貨の価値は以前として強いままである。その為にものを安く輸入でき、社会全般がデフレ傾向にあるが、ものの価値が安ければ当然企業は薄利多売を指向し、それが競争原理となり、さらにその安さを維持するために製造コストが下がれば、私たちの給料が上がる術はない。そして日本人の労働力が高い価値のままなら、価値が安い国に製造を依頼するのは自明の理である。これを喜ばしい事のように言う人もあるが、もしこれが私たちの生活の安定の要因となっているならば、現在の高い通貨価値が下がれば、相対的にものの価値は上がるので、海外に依存している私たちの安定などは簡単に吹き飛ぶことになる。しかも輸入に依存し、製造や農漁林業など、国家が自給する為に必要な労働者が減り続ければ、通貨価値が下がり、再び自国での生産に切り替え用としても、それを行いうるだけの人的基盤はあるのだろうか。
経済的な面ばかり見てきたが政治においても同様であり、私たちは長い間政党政治に依存し、政治家を政党が生み出すまま受け入れてきたが、その結果は世襲の増加や、政治家の質の低下などに繋がっている。しかしそれよりも深刻なのは、政治的な安定を求めるあまりに民主主義国家の国民としての役割を果たさなかった(これは選挙の投票率を見れば解るであろう)、私たちの政治意識の低さである。日本国民は主権者として未來の選択をおこなわなければならない。その最終的な決定を議員に委託するとしても、その議員を選ぶのは私たちであるはずなのだが、その権利すら私たちは「安定」の為に放り出してきた。「政治は政治家に任せればいい」、「わからないくせに政治に口を出すな」と、年配の方ほど口に出すが、国民が主権者である以上、政治は政治家に任せるものではないし、政治や社会についてわからなければ、それを教えあい、国民の質を高める事が民主主義国家の、共存社会の持続に繋がる。戦後から日本が経済成長の頂点に上るまで、様々な形での政治的混乱があり、そのような混乱の恐れから政治的な安定の確保のために、国民による政治的自粛が行われている。もちろんその本当の動機は、経済的な成長と自らの欲求の達成に忙しくなったからかもしれない。しかし、だんだん政治的な関心が薄れた結果、政治を求心者にまかせ、その人間が高齢化すれば、前に述べたようにイエスマンの統治制度を、すなわち派閥や世襲を容認してきた。現在の国政、市政を問わず、その代表者である議員になる人のほとんどは、親兄弟、親族に政治家を見出すことが出来るだろう。そして彼らもまた自己の、そして次代の安定を望む結果、自身に近づくものだけを受け入れ、それ以外の人たちには特に大きく関心を払わなかった。もちろん政治家全てがそうだとは言わないが、公然と言われているように、選挙に必要な「地盤、看板、かばん」は、前任者から「与えられるもの」ならば、政治家を志す者は大なり小なりそれを受け継ぐ事を手段とせざるを得ない。初めは様々な理想や個性を抱いているだろうが、それを実現する手段を追ううちに、その初めに持っていたものは忘れ去られるのである。彼らは自分の政治的意思よりも、数による力での実現から抜け出せず、またその力を集めるために場当たり的な政策しか採れないために、変化の前にすくむしかないのである。このような政治家を製造する組織が現在の日本の政党であると言え、その結果、政治家の質は報じられている通り落ちたと言えよう。しかしそれよりも、そのような政治家を簡単に選択する国民こそ、当然質は低いと言わざるを得ない。この安定のための依存に慣れきった国民は、豊かな時も、現在のような苦境にある時も、国家や政府、社会という「何か力のあるもの」が何とかしてくれると思い、それを頼り、あくまでも自己の自由や権利を守り通そうとする。しかし、この求心力たる国家や政府、社会がどのようなものであるのか、過去に依存したままの私たちはすっかり忘れている。それゆえにいつまでも自らで行動しようとせず、時が流れゆくままに、誰かの助けをまっているのだが、国家や政府、そして社会が私たちが構成している集団である以上、誰かを期待することなど出来ないのであり、もし、誰かを頼らざるを得ないのなら、それは民主主義国家日本の終焉であり、敗戦より私たちの築き上げてきた大いなる国家の安定など、一朝にして終わるのである。
私たちは今、自分たちの生活という小さな安定を、今少しの間伸ばし続けるか、それともそれを幾分か振り捨てでも国家という大きな共存社会の安定をとるかという選択の岐路に立たされている。今まで過去に依存し、「安定」によってため続けてきた変化の力を、さらに支え続ける余力は現在の私たち自身には、もうない。それは何度も繰り返すように、日本の経済的な力、国民意識を見れば、そう遠くない時期にその時は来るであろう。そして現在の私たちの状況では、その変化を素直に受け入れられることすら難しい。国家が共存社会であることを忘れ、自分たちの力で変えられる政府をいたずらに敵視し、信頼していないのならば、変化を受け入れるための調整者はいったい誰がなるのであろうか。また、変化がきても自分たちの安定を護ることに専念すれば、そこに必ず争いは発生するであろう。変化の波にさらわれる波打ち際の人間と、高台にいる人間、もし共に国家という集団の構成員であったなら、互いに助け合わねばならないはずだが、自分の生活のことにかまけて共存する他者を助けねば、そこに嫉妬や恨みなどの争いの火種は必ず発生する。そして歴史を見れば、高台の護りやすい所にいても、いくらでも引き吊り下ろされる。もし、私たちが変化による争いを避け、それを成長への踏み台にしたいのならば、より共存の道を模索しなければならず、それは平等などの強制的な力などではなく、自らが進んで行うものでなければならない。
安楽に慣れ、またものの豊かさが当然のように思っている私たちには、それすら非常に困難と思えるだろうし、事実その実行には、かなりの努力を要求される。なぜなら現在の私たちは、「安定」の為に将来に大きな借りを作ってしまったために、返済のための相応の力が必要だからである。楽観的に考える事は簡単だが、現実が楽観にあわせてくれた事など一度もない。それゆえに私たちはもっと国家を、政治を、経済を、質実に考え、早く、また多くの犠牲がともなわないように代償を払う道を模索せねばならない。そして、私たち自身から我慢できる程度に現状を変えながら、患部を切り取り、耐えながらもより一層の向上を目指すべきではないだろうか。現状のまま「安定」を指向する事はたやすいが、その「安定」が破錠すれば私たちの生活が急落する事も簡単に予想がつくはずである。そのような急激な変化から身を守り、日本そのものの「安定」を目指すのなら、私たち自身の「安定」からの依存を脱却し、変化に進んで挑戦し、それに耐え、受け入れるしかない。時代は「変わる」のではなく、「変える」のである。ただ、そのためには基準の再編は必要であり、それは憲法の新たな制定へと結びつくのだが、そのことは後述する。
(補足1)最も変化を受け入れること事態、自己の安定の確保であるといえるかも知れない。ただ、この表裏を説明するにはいささか言葉足らずであり、また別の機会に譲る。

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