2012年1月12日木曜日

安定という不確かなものの依存からの脱却(2)


なぜ、そんなことが言えるのか。それは安定のために現在の日本の財政が、税収だけでなく、同額の国債を発行し、それを足すことで賄われるという極めて馬鹿げた、そして危険な橋を渡っているからである。もちろん、経済のみで国家を押し計ることは出来ないが、しかし経済力が戦後の成長における根幹であり、私たちの豊かさを支える価値であり、そして国際的にもわかりやすく、指標となっているのなら、この日本の財政問題は、まさに我が国の急所とも言える。しかし、現在の政治家や官僚が、どれだけ政策を実行しても国債の発行量が減少する兆しはいまだ見られず、また、よしんば減らしたとしても、今まで発効してきた量の償却にはどれぐらいの期間がかかるのか、奇妙な事に常に「経済効果」などをさえずる政治家も、そしてメディアも全く述べようとはしない。しかし単純にいえば債券や借金とは未來における労働の約束であり、それは将来の日本人へ確実な負担となる。そして、もしそれを怠れば国民の保有している国債の額面価値も全て無に帰するだけでなく、ことの重大性によって日本は国際的な管理下となるはずであり、第二の敗戦を迎えるであろう。そしてその占領者はアメリカか、はたまた中国か、それはわからない。私たち自身の借金やローンも返却できなければ住居や財産を差し押さえられ、路頭に迷い、豊かさとは無縁となり、現状の安定など望む術もない。それと同じ事は、お金を主とした価値観を共有する私たちの社会では、個人でも国家でもその効果が変わらないことを私たちは忘れてはならない。「生活の安定」、また「未来への成長のために」という名目で国債によって将来に借りを作り続けているが、それによって将来の見通しが確実に立つ訳でもなく、現状の安定も限定的なものと言わざるを得ない。
「安定」とは何であろうか。通勤で駅を使用していると選挙が近づくにつれ、候補者がそこで政治主張をおこなう光景を見る。それを聞くと各者、各政党の政策の主張にそれぞれ違いはあるが、しかし近年、その核心は「現状生活の安定」に一致している。ある候補者は「現状の生活を維持するために、消費税の増率を」と唱え、またある候補者は「現状の生活安定のために、消費税の増率には反対」と述べるように、その方法論は違えど、結論においては一致している。特に現在のような経済的な不安をひしひしと感じる時期は、いつ自分の生活が脅かされるのかという思いが、「安定」をさらに信仰とさせている。しかしよく考えてみれば、私たちの経済が成長期にある時も生活的な変化は大きく、決して安定的であったといえなかったはずだが、私たちはそれに対して不安を抱く事はなく、期待を持ってその変化を受け入れていたはずだ。人は、自分の欲求が実現したりする変化には黙っていることが多いが、失う事に関しては非常に過敏である。自分の現在の立脚点からの上昇は受け入れるが、そこからの下降は認めない、そしてそれを拒否し、そうならないために「安定」を願う。現在の政治に大きな影響力を持っている世代は、皆、バブル経済絶頂期をすごしてきた。この次代から、経済の停滞状況に有る現在までの間、同生活が変化していったのか、若い世代の人間には感じにくいだろうが、バブル時代によき経験をした人たちにとってみれば、そのサービスや享楽が失われた今は、変化をひしひしと感じるのであり、それは「昔はよかった」というぼやきに繋がる。そう考えると、私たちは変化に対して鈍感であるというよりも、実は鋭敏すぎると言えなくもない。(補足1へ) 
私たちの周囲が常に変化で満ち溢れているのなら、実は「安定」という言葉はまやかし同様のものにすぎない。私たち自身に寿命があり、いつか死という終わりが来るように、物にも必ず終わりがあるように、そして老いが自分の最もよい時期と比べれば全くの別人となり、物にも同じような経年劣化が起る。ただ、これは善し悪しの問題ではなく、絶えず物事は変化し、その変化に対して人も物も、何らかの力を使い続けるために、次第に衰え、終わりがあるだけである。
しかし「安定」という言葉には、そのような変化を悪しきものとして拒絶し、「永遠」や「不変」という叶わぬ望みを潜めた抵抗がある。例えば、私たち自身大きな財産を得たら、それを自己の欲求の実現のために使い、さらにそれを保持し、持続させることを望むだろう。さらにそれだけではなく、持つ財産を次代にも引き継ぎ、一族の繁栄を願うことも考える。最も次代の繁栄をも望むのは、次代の人間のためだけでなく、自身が老いた時その生存活動を保障され死までの期間を安楽に生きたい、もしくは死までの間、自己の欲求を可能な限り実現させたいと思い、次代の人間や一族にその支えとなってもらう欲求は否定できず、この欲求は自己の「安定」に言い換えることも出来る。そう考えると、年をとっても自分が持つ権力、すなわち人を使役できる力である金銭や土地などの財産を手放そうとせず、可能な限り次代の人間に引き渡そうとしないのは、その本人の才能が優れているからというよりも、我執が強いからであり、自己の安定を持続させるために、全く別の他者をも自己と同化させようとする。それを結果論から見れば善し悪しの判断は難しいが、次代の人間を信ぜず、またその持つ可能性を押しつぶしている側面があることは否定しがたいはずである。ところがおかしなことに、人は自身が押し殺されるような長く続く力を尊重し、それに従う事で自己の安定が簡単に手に入ると思い込んでいる。これは例えば企業においては、いわゆるワンマン社長とその周辺のイエスマン達、政治の世界においては議員と秘書、並びにその支持者たち、宗教界における教祖とその信者達、そして日本の政治現状では既存政党と国民にその関係は見られる。しかし、このような関係は誰かが敷いたレールの上を走る列車同様に、レールが続く間は「安定」的に持続が確保されるだろうが、そのレールが途切れたり、レールを敷く者が死などによっていなくなるなど、何らかの原因で終わりを告げた時、その列車の命運はそこで途絶えるのであり、そこから先において自分が生き残るか否かは、自分の命運次第という、全く不安定で、さらには危険な境地に身を置くことになるのである。結果として「安定」は突然の大きな変化に対しては全く効力を失うだけなのだが、これはなぜであろうか。

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