2012年1月3日火曜日


続き
しかし変化とは言うほど簡単なものではなく、私はこれからの日本の変化に対して、3つの恐れを感じています。1つは変化が混乱へと繋がる事であり、このような変化は自分の環境などを変えるための機会であると、これを利用し、乗じる人間は必ず現れます。良き国家を創るのと、自分の環境が良くなる事とは、全く別の事ですが、変化が人間の欲求を刺激することは間違いのないことであり、またそれが変化の動機となることも確かなことです。良き国家を創れば誰もが良き環境に属する事が出来ると私は思っていますが、しかしそれが物質的なものである事は保障できない以上、物を持つ事によって満足感を得られている人にとって見れば、また物を獲得する事によって変化を感じる人にとっては、私の論はつまらなく思え、より直接的な混乱を望むでしょう。私は、そういった人間の機会を得させるために変化を求めているのではない事を、先に記しておきます。政治的変化には、欲求に迎合した大衆のダイナミズムを必要としますが、わたしは出来るだけ民主主義制度にのっとって、日常生活や労働環境を侵す事なく、また血や破壊などの闘争を求める事なく、あくまでも言論と、他者との繋がりと、そして投票によって日本が変わる事を望み、それが最良であると信じ、この稿を書いています。
2つ目の恐れは、現在の日本が民主主義制度に飽きる、または自分たちの力に自信をなくし、不安を抱き、このままでは何も変わらないと性急に判断し、その結果、一人の人間、または党に強権を持たせ、この変化を彼らの与える力に依存しようとすることである。都道府県知事や市町村長の選出、またスポーツ選手などの著名人の政界進出に、これらの意志は如実に表れており、この危惧が明確化するのも時間の問題です。昨今の政権交替などをみるように、一朝にして巨大な権力が転がり落ちることは、これからの選挙でも見られそうですが、今はその力を大きく振りかざしはしていませんが、これから先、このような政治的変化が続けば、間違いなく機会を捕らえたものは大胆に行動をとるでしょう。ただ、本来の民主主義の考え方によるならば、国民の選択によって一つの大きな力が誕生したのなら、それは正当な力として行使されるべきなのです。しかしその結果がどうなるのか、今までの歴史を見れば、よい想像は出来ませんし、だからこそ政権政党もその力に躊躇していると考えられます。しかしここに一人の、有能と思える人物が出てきたら、私たちは彼をどう迎えるでしょうか。
私たち自身の選択する力は不安定なものであると思い、才能があるように見えるものを代表者として、熱狂的に迎え入れるかもしれません。しかし彼がその才能によって、真実の彼の姿や欲求を隠していたとしてら、どうなるでしょうか。力を手に入れた彼は、簡単に私たちを拘束し、そして自らの望む方向へ動かすでしょう。そしてもしその方向が、一時的にも正しかったのならば、民主主義に不審を抱く私たちはそれを放り出し、彼の力による時代の持続を望むのではないでしょうか。しかしそれはほんの一瞬にすぎないことは、ナポレオン、アドルフ・ヒトラー、毛沢東やポルポトの時代をしればよくわかるはずですし、それが本当に国民を幸福へと導いてきたのか、疑問です。
国家を建て直すには確かに強権的な力には魅力を感じますが、しかし私たちは民主主義という最良の制度を手にした以上、それを壊してまでその力を手にする必要はないと思います。また、私たちが良き人間になりさえすれば、何か一つの力に頼る事もなく、私たちの持つ力のつながりによって、より大きな力を求めることはできるでしょうし、それは私たちの他者に対する受容性によって決まるとするならば、それほど難しいことではないはずです。
そして三つ目の恐れは、このまま国民も為政者も何もせず、ただ時の流れゆくまま、変化に対してすくみ、何もしない事です。このような形で国家が歴史的変化を体験した例として、近年ではソ連の崩壊から続いたロシアの苦難があります。ソ連の崩壊は、成立したときほどの大きな革命はなく、多くの血が流される事はありませんでしたが、しかしこの解体による転換に国民の積極的な姿はなかったと私は思います。もちろん市民的な行動がなかった訳ではありませんが、それはレーニン像を壊すような象徴的なものに過ぎず、新たな政党の成立や憲法改正運動が市民から出され、それが注視されたという記憶はありません。ソ連の解体は、モスクワや現在のロシアである地域よりも、東欧やバルト三国での民衆運動が引きがねとなったソ連の影響力の低下と、そしてゴルバチョフという一人の政治家が演出家となり、混乱のない形で幕引きしたと解していますが、そのような与えられた変化の結果は、力に依存し続けた国民の決して短くない混乱に見ることができます。国力の低下はそのまま経済の低迷へと、そしてそれは秩序の崩壊へと繋がります。歴史的に見ても、革命後の混乱は強力な権力者によって収束される事が多いように、ロシアもまたプーチンという権力者を登場させました。彼の治政はその強権による混乱の収束というイメージによって、まさしく専制君主や独裁者を彷彿とさせますが、プーチンが今後、彼らと同じような行動をとるかどうかはわかりません。ただ、このような強権手法は所々で堪え難い不公平を生み、それは国民の不満を蓄積させるでしょうし、その権力を長く続けようとすれば、それをかなえるための強力な力を国民に与えるに与える事は言うまでもありません。
私たちは自分の先のこともわからないのに、歴史的変化など予測できない以上、それに即座に対処することなど、それに対して確実な回答を出すことなど不可能であると言えるかもしれません。過去の世界をみても、そういった例は見つけられません。例えばフランス革命はルソーなどの啓蒙思想家によって下地が出来、シエイエスなどによって準備されましたが、しかし力の主役たる民衆は、自らの変化に対して理想以上の予測はできなかったでしょうし、その理想も個人的な欲求の実現の範囲を超えることなかったと思います。

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