2011年12月31日土曜日

はじめまして

 明けまして御目出度うございます。
 いよいよ2012年、平成24年がはじまりました。
 しかしながら日本の現状は、必ずしもおめでたいものとは言い難いです。経済的な停滞は先が見えませんし、政局の混迷はその打開をさらに遅らせているだけです。バブル経済がはじけて以降、私たちはその財政を国債に依存し、その結果20数年間だけでも800兆円近く累積させてきました。しかしその国債で得たものが、順当に国民のあいだを流れているとは言い難く、流行の波に乗れた者、また努力無く社会に依存しきっている者だけが利を得て、多数者としてくくられる普通の国民は、物価の低下による薄利や、リストラによって、そして天災と増税がとどめを刺すように、不安を抱きながら先の見えない生活を送っています。


 さて、このような現状を打開すべく、私たちは選挙によって政治家、その実は政党を変えてきましたが、今一つ効果はありません。それもそのはずであり、現在の政党は、政治家がその理念や理想によって生み出したものでは無く、その相関、手法は戦前にさかのぼることが出来、それゆえに政党が政治家を生み出しているともいえなくはないでしょうか。政党という政治家の集団は、民主主義における多数決の原則において、確かに数を獲得、維持するための有効な手段ですが、その一方で数の力を持続させ自己のために利用しようとする人間の綱引きの場となっており、そしてその場を残しておくため、様々な手段によって組織を維持しようとしている以上、彼らに現状を打開し、新たな一歩を踏み出すつもりも勇気もありません。現在のままで都合がいいのは、民主党にしろ、自民党にしろ、社民党から公明、共産に到るまで、既存の政党制度を維持、利用しようとしている人間、皆同じなのです。それゆえに、彼らが国会の場において、パフォーマンス的に討論をおこなっていますが、各政党、政治団体の構成員が他の組織と討論などの交流をおこなうことはなく、また異質な意見を受け入れようとはしません。組織が胸襟を開くのは、その組織の利益になる時だけであり、自分たちの政治意識を高めるためにはむしろ閉鎖的な傾向を見せるのです。
 こうした実情のため、現在の政治家、また政党を変えても、なかなか政治が良くならず、むしろ停滞から悪化へとたどっていることは、皆様十分認識できていると思います。


 では、政治家を選択する国民はどうでしょうか。
 私たちは、日常、自己の生活を維持するための活動しか行いません。経済的な状況を維持するために働き、自分自身を維持するために余暇を楽しむ。しかしこういった安定は、国家あって故のことだと考えたことはありますか。
 現在、選挙の投票率は低迷しております。スター候補者がしのぎを削っていたり、メディアで注目される選挙はさすがに高い投票率ですが、それでも70パーセント程度です。残り30パーセントの人間は、おそらく政治など自己の生活に何の関係もないと思っているのでしょうが、それは大きな間違いです。国家は、その構成者である国民が、一人一人の力を供出してこそ大きな力を持つのであり、そしてその国家を安定して維持するために、構成者である国民の利害を調整し、国民の総和による大きな力の方向を決定する、それが政治です。つまり、私たちは生きている限り、そして国家を、他者を必要とする限り、政治とは切り離せないものなのです。
 かつては、政治的な力、いわゆる権力は、生まれながらに持つ一握りの者だけが施行できるものでした。しかし、明治維新以降、その力は少しずつ解放され、そして敗戦によってその勝者たる米国より、日本国憲法と民主主義を与えられることで、私たち国民一人一人が政治的な力を持つことを、正式に得ることが出来ました。私たちは誰でも国民の代表者になる機会を持ち、またそれを選ぶことが出来、さらには政治に関して様々な意見を述べることは自由である、こうした民主主義の恩恵によって、日本の復興は諸国が目を見張るほどの早さで、そして経済的には世界有数の国家となったのです。言うなれば、民主主義は日本の風通しを良くさせ、日本国憲法は国家としての範囲を拡げたために、新たな可能性、機会が生まれ、その結果、現在があるのです。
 しかし、私たちは、民主主義からの恩恵を十分承知しているでしょうか。その機会を利用し、自分たちが豊かになるためには、国家を豊かにしなければならないと考えていますか。
 おそらく多くの人は、自分が豊かになるためには、自分のために努力しなければならないと思っているはずです。しかしそれでは望んでいるものを得ることは出来ません。私たちは生きてゆくにおいて、他者を絶対的に必要とします。私たちは、主に商取引のサイクルから生活資源を受けていますが、こうした取引は他者あってのものであり、他者が豊かにならねば、自己も豊かになれません。安価で購入した湿地の上に家を建てようとしても、そこに地面を堅くするためにコンクリートを注ぎ込んでも、湿地が深ければ家を建てても沈みゆくだけです。私たちがより豊かに、発展するためには、自らが住む土地そのものが強固であらねばならず、その為には私たちが民主主義で認められている様々な機会を利用しなければなりません。
 民主主義とは、非常に面倒くさいものです。そしてまた、各個人が自己欲のみによってその機会を行使しようとすると、国家は簡単に誤った方向へと進んでゆきます。これは先の戦争前における日本の状況も同じといえましょう。また民主主義が、自分の余暇を削る迷惑なものだと思えば、新しい専制者が生まれはじめますし、現在の政治家の世襲などを見ていると、もうそういう段階に来ていますが、しかしその結果を見てもわかるように、日本という国家はひどく偏狭になりつつあります。


 前置きが長くなりましたが、私たちの国家を、私たち自身を、再び豊かにし、発展させるためにはどうすれば良いのか。
 そこに様々な方法を見出すことが出来ますが、私は「国民自身が新たな憲法を制定する」という結論に達しました。
 憲法というのは国家の最高法規である以上、それは国家の範囲になり、私たちはそれを超えることは出来ません。しかし、私たちは政治に参加出来るため、憲法のことを論じ、変えることも出来るはずです。
 どんな良法でも、それが恒久的であったためしはなく、また物事は放っておけば腐りゆくのみです。現在の日本国憲法は間違いなく敗戦後の日本に良い影響を与えてきましたが、しかし現在の日本においてはどうでしょうか。「自由」という言葉が濫用され、個人の権利が最上位であることの論拠になっている。国防などにおいて認められるべきものが認められず、また新たな問題に対処し切れない。日本国憲法は戦後70年近く、私たちの範囲となってきましたが、今やその範囲は摩耗し、穴だらけになっています。
 私たちが更なる発展を、新たな未来へと歩むためには、新しい範囲、つまり憲法が必要なのです。
 
 しかも、それは上に立つものから与えられるものであってはなりません。私たち日本人は、長きにわたって国民が政治に関与してこなかったためか、政治意識は高くはありません。明治維新も、それまで特権を握っていた武士の中より起った変革であり、また戦後の民主主義、日本国憲法は米国より与えられたものです。現在に至る日本の政治史の中で、国民自身による新たな変革の動きがなかったとはいいませんが、現在いる国民がどれだけそれを知っているでしょうか。
 欧米などの民主主義の歴史を見ると、それは国民自身の難産の結果であるといえなくもありません。それは血を流し、時には圧制に、懐旧に押し流されて過ちを犯しながら現在に至って得たきたものなのです。そしてそれは現在の人間も、意識を持って体験していることといえます。欧米人と比べて、日本人に欠けているのはこの点であり、制度などは確かに揃っていますが、私たちがいまいちそれをきちんと行使できない理由も、私たちの体験不足であり、そして失敗を恐れる気持ちからなのです。そしてそれゆえに、私たちは体験をせねばならず、自分たちの手で憲法を制定しなければ、真の民主主義国家たるとは言えず、自分たちの道を自分たちで切り開くことなど出来ないのです。


 では、どのように憲法を制定するのか。
 それは当然民主主義国家である以上、多数決によってであり、現行法に則って、正当におこなわねばなりません。「革命」は、少数者の意志によって変えるものであり、多くの国民はそれについてゆくだけ、それゆえに、暴力や収奪がそれに付随します。私たちは歴史を良く知ることで、そうした方法から身を引くことが出来るはずですし、60から70年代における日本の政治運動からもそれを学ぶことが出来ます。
 そしてそれを考えると、私たちはまず「日本国憲法」を改正し、新たな憲法を制定できるようにせねばならず、またその為には「国民投票法」を改正せねばなりません。また、国民が新たな憲法を望んでいることを知るためにも、その為の投票も必要となりますし、署名活動や、代議士を送ることも必要になります。地道な運動によって運動を行ってこそ民主主義の体験となるのであり、私は性急さのみによって変化を望んではいません。


 憲法を変える、また憲法を護る、こうした動きはかなり日本に根付いています。しかしこうした動きに近づいてみると、それぞれが自己の党派に寄り集まるだけで、交流や討論によっての成長はなく、閉鎖的なものであると感じます。
 また民主主義国家であるにも関わらず、公的な場での政治活動、また意見を述べることも閉鎖的です。
 しかし国民の政治意識を高め、憲法を変えるには、思想や党派、組織や宗教などを超えた、言論、運動、交流の受け皿が必要です。例えば私の持つ思想を知ると、保守的な政治思考を持っていると感じられるでしょうが、ではこの私が保守的な人間の集会にいってもあまり歓迎されません。自衛隊は認めるべきと考えていますが、核の保有には反対ですし、集団的自衛権には懐疑的なため、それらを承認しない限り党派には認められないのです。
 こうした例はいわゆる「革新」といわれる人達も同様であり、「革新」といいながら考え方はひどく守旧的であり、その構成者は高齢の方が多く、むしろ自らの立場を守ろうとしている感があります。
 この新歩会では、こうした思想や党派、宗教にとらわれず、自由に憲法論議をおこなって欲しいです。そして多くの意見に耳を傾けることで、未来に多くの可能性があることを知って欲しいです。


 以上、長々となりましたが、この新歩会設立についての弁を終わりにしたいと思います。
 最後に、この運動はネット上を主としたものではなく、とりあえず私自身が実際に活動することによって広めてゆきたいと思っています。それゆえに、このブログが実際の役に立つのは、おそらくまだ先の話になるでしょう。ネット上の政治運動を否定するわけではありませんが、政治活動は、やはり直接に人と人とが顔を併せておこなうべきですし、このブログはその補助的なものであると思ってください。